冒険の書をあなたに2
リュカたちの寝台より幅広く、ライアンが大の字になってもはみ出ない大きさの寝台。ライアンは静かに片側へ身を寄せて、ホイミンの眠る場所を空けた。
ホイミンは一瞬緊張に満ちたまなざしでその空白を眺め、微かに震える指先を強く握り込む。
「じゃあぼくもう寝ますね、おやすみなさい!」
勢いづけて寝台へ潜り込むと、案の定懸念した通りの結果が待ち受けていた。
(うううううわあぁああ、やっぱりライアンさんの匂いがするうううううう!!)
「ホイミン、そんな端にいないでもっと寄ってもいいんだぞ。寒くないか」
背を向けたままぴくりとも動かないホイミンの様子を訝しみ、ライアンは眉尻を下げた。
「……やはり臭うか?」
「ふぇっ……?」
「寝具は取り替えてあるし、そのう……あ、汗臭くはないと思うんだが。もしかしたら加齢臭でもあるだろうか」
まるで見当違いの発言を耳にして、ホイミンはふすっと吹き出した。
「確かにライアンさんの匂いでいっぱいだけど、いい匂いだよ。大丈夫……」
憧れの枠をとっくのとうに超えた感情を持て余していることを、もしライアンがほんの僅かにでも触れたなら分かってしまうほどの熱を抱えていることを、悟らせまいと懸命にひた隠す。
かつては良く分からなかった匂いが鼻腔を満たす。抱きしめられているようだと思った矢先に鼓動は跳ね上がり、それと同時に胸の中央を穿つ痛みには気付かないふりをして、ホイミンは背を丸めてぎゅっと目を閉じた。
翌朝を迎え、深い雲間から天使の梯子が姿を現す。野鳥たちが賑やかに目覚めの鳴き声を響かせ始めた辺りで、身支度を終えたライアンたちは自宅裏の小道を歩いていた。
様々な生き物の鳴き声が轟く森の中、湿った枯れ葉が靴の裏に優しく当たる。
天秤桶を肩にかけたライアンの後ろをリュカとソロ、そしてルヴァとホイミンが続く。ライアンはまだ軽装だったが、リュカとソロとルヴァはいつでも出立できるような姿だ。
「付き合わせてすまんな。すぐ終わらせる」
そう言ってライアンがちらと視線を後ろに放ると、ライアンと同じく天秤桶を持ったリュカが柔らかく笑んだ。
「お気になさらず。こちらこそ長々とお邪魔しましたから」
「普段は男一人だからなあ、賑やかで楽しかったよ。バトランドまでは私も一緒に行こう。王に謁見せねば」
ライアンとリュカが会話する間、大口をあけて欠伸をしていたソロが話に参加してきた。
「それならオレも顔出しに行くか。たまには勇者の肩書き使ってやんないと」
そう言ってドヤ顔を決めたソロに苦笑しつつ、リュカは黙々と歩いているホイミンへ目を向けた。
「ホイミンはどうする?」
「ぼく、は……」
答えに詰まりちらとライアンを見上げると、ライアンもまた気遣わしげに振り返っていた。
「おまえはもう少しうちにいてもいいだろう? 留守を預かってくれたら助かるのだが」
「じゃ、じゃあ……もうちょっとだけいようかな」
ホイミンの出した答えに満足げな様子のリュカがにっこりと笑った。
「そうしなよ。ぼくがいたから、思い出話もあんまりできてないだろ?」
そんな会話をしているうちに、目の前に小川が現れた。
先日の雨の影響か水位は増していたが、水は既に透明度を取り戻している。
先頭を歩いていたライアンは石の上を迷うことなく渡り、それを見たリュカが後に続く。そして二人は桶に水を汲んで戻ってきた。
「綺麗な川ですね。川底の石もよく見える」
「ここは水流の緩やかな場所で、朝焼けを映す水鏡になるんだ……この時代の思い出になればと思ってな」
きらきらと光を弾く静かな水面には、流れゆく雲がくっきりと映り込んでいる。
「……」
そこでリュカの言葉が途切れ、どこか遠いまなざしで川面を見つめた。
「リュカ殿?」
ライアンに名を呼ばれてはっとしたリュカが慌てて口角を持ち上げた。
「あ……すみません、ちょっと昔を思い出してしまって」
リュカはうまく笑ったつもりだったが、胸に込み上げてきた感情を堪えるほうが優先され、その表情は痛ましいほどに歪んでいた。
その場にいた者たちは、黙してリュカの言葉を待つ。
「子供の頃にね、一度だけ……川岸で父が肩車をしてくれたことがあったんだけど、そこも綺麗だったなって。ここよりもっと広いところだったけどね」
心の片隅にはどれだけ時を経ても訪れる、悲しみの波がある。それは満ちては引きを繰り返し、ときに様々な感情を起こすのだ。
リュカは懐かしそうに目を細めながら、がりがりと後頭部を掻き毟り、眉尻を下げた。
「……父がその後すぐに亡くなったもんだから……まだ消化し切れてないみたいだ、ごめん」
その言葉に、彼の人生を決定づけた惨劇を知るルヴァが密かに胸を痛め、ソロの肩を小さく叩いて耳に口を寄せる。
ルヴァの話を聞いたソロは規則的な瞬きを繰り返しながら、背負っていた杖を右手で掴んだ。
「リュカ、ちょっとこれ振ってみて」
ぽんと手渡された杖に視線を落としたリュカが、戸惑いがちにソロを見る。
「ええ? なにこれ」
「いーから。なあ、そんときってどんな子供だった?」
「ええ? ど、どんなって言われても……」
半ば強引に持たされた杖を、促されるままぶんと一振りする。
「うわっ!?」
空気が圧縮する感覚と共に酷い耳鳴りがして、リュカはたまらず目を閉じて耳抜きをした。
「わああ、リュカさんが小さくなってる!」
ホイミンの声に目を開けたリュカは、己の手を見て目を丸くしている────それもそのはず、手指は小さく短く、着ていた服はぶかぶかになり、体が縮んでいたからだ。
その光景を見ていたソロがルヴァと視線を交わしてにんまりと笑い、ライアンを呼ぶ。
「ライアンよろしくー」
「ふむ……ああ、そうか。承知した」
ライアンはぎょっとした顔のまま視線を彷徨わせるリュカを軽々と抱き上げ、そのまま肩に乗せた。
「えっ、えっあの」
ソロの手が届く高さまでライアンは膝を曲げ、リュカの頭目掛けてソロの手が伸びてきた。
そのままくしゃくしゃと頭を撫でながら、ソロがぽつりと話し出す。
「夕べのお返し。ルヴァの入れ知恵だから、文句はそっちに言えよ」
な、と視線を送るとルヴァが苦笑いを浮かべて頭を振る。
「入れ知恵だなんてそんな。実行役はソロ殿ですよ?」
「知らねー。オレは言われたからやっただけだしー」
ついでにと言わんばかりにルヴァもそうっとリュカの頭に触れた。
二人に撫でくり倒されているリュカは恥ずかしそうに肩をすくめていた。
「えー……はは、参ったな……」
小さな両手で顔を覆い、指の間から呟きが漏れ聞こえてくる。
「うまく……言葉に、ならないよ……」
「いんだよ。無理に喋らなくたって」
ぶっきらぼうな口ぶりでそう告げるソロのまなざしは優しい。
「リュカ、あなたの胸の内に去来している思い出に、いまどっぷり浸ってみてください。以前アンジェが言っていたでしょう、何もかもを背負い込まないように、と」
以前アンジェと共に古代の遺跡やサンタローズへ向かったときのことを思い出し、ルヴァは穏やかに言葉を続けた。
作品名:冒険の書をあなたに2 作家名:しょうきち