冒険の書をあなたに2
こくりと頷いた拍子にぽろぽろと涙を零してしゃくりあげ始めたポピーを、アンジェリークはそうっと抱き締める。
優しくとんとんと背をあやす手や、大人の女性らしい上品な香りに導かれるように、ポピーの中でつかえていた言葉が堰を切って溢れ出す。
「お、お願いします、アンジェさま。みん、みんなを、たすっ、助けて、ください……」
もっと色々伝えたいことはあるだろうに、嗚咽混じりに振り絞った声がとても辛そうで、アンジェリークは抱き締める腕に僅かに力を込めた。
この神鳥宇宙のどこかにはあると思われるのに、その存在は杳として知れない謎多き世界────リュカたちが住むあの惑星の位置を特定できれば、次元回廊を開くこともできる。だがポピーたちが来たときの次元の歪みは研究院で確認されたものの、星の特定までは叶わなかった。
「任せて頂戴。リュカさんのことも気がかりだし、後で作戦を立てなくちゃね。だからあなたは安心して治療に専念してね、早くそちらの世界に行くためにも」
アンジェリークの優しい声に、心の中に巣くっていた不安がするすると解けて霧散していくのを感じたポピーが、ようやく口元を緩ませた。
「は、はい……!」
ポピーの肩からずり落ちたストールをかけ直し、アンジェリークが嬉しそうに笑う。
「そのストール、似合ってるわよ。オリヴィエが選んだの……あっ、彼は夢の守護聖ね、着替えもあるから良かったら使って」
御前会議の帰り際に詳細を訊かれた。そして年頃の女の子なのに着の身着のままは可哀想だと言ってすぐに見繕ってくれたのだった。
「オリヴィエ、さま」
ポピーは薄手でさらりとしたいい手触りの布地に視線を落とし、お会いしたときにお礼を言わなくてはと、しっかり復唱して記憶にとどめた。
手提げ袋から幾つかの荷物を取り出しつつ、アンジェリークが楽し気に説明を始める。
「覚悟しててね〜、ばりっばりにお化粧されちゃうかも。あとはねー、このハーブ石鹸セットはリュミエールから、チョコと薔薇はオスカーから……中堅組はほんとソツがないわね……あ、何でもないの、こっちの話よ。で、花瓶のお花はね、マルセルがお庭から持ってきてくれたの。この小さいチェスは、退屈しないようにってランディから。対局相手はルヴァとマーリンさんならいいわよね? ゼフェルからは……メモね」
しかもペラ紙一枚に殴り書きである。恐らくルヴァかアンジェリークのどちらかが代読するのを見越しての、辛うじて読めるレベルのメモに目を通すアンジェリーク。
「なになにー、えっと、『ロビンは直しておいた。元気になったらあとで見に来てもいいぜ』ですって。もー相変わらずなんだから」
見かねて仕方なく修理したと見せかけてきっと楽し気に作業していただろうな、とアンジェリークが口角を上げる。
それと同時にポピーのまなざしも驚きと喜びが混じり合う。
「ロビン、直ったんだ……! あの、機械の魔物さんなんです。仲間になったときに片腕が壊れちゃってたの……ベホマでも直せなくて、そのままになってて……良かったあ」
自分は感染症にやられ倒れておきながら仲間の快復をまず喜ぶポピーを、アンジェリークとルヴァは優しいまなざしでもって見つめた。
「ジュリアスはパトリシアの面倒を見ているわ。厩舎があるから、気になるならあとで案内させるわね。クラヴィスのところには他の魔物さんたちが集まって寛いでるみたいよ。お庭のあちこちで遊んでるんですって」
そういえば庭の木陰にクラヴィスが座り込むと、いつの間にか動物たちが集まってくると聞いたことがある、とルヴァは思い返す。
「闇の安らぎに惹かれるんでしょうかねえ……人よりも彼らや動物たちのほうが、ずっと正確に彼の持つサクリアの本質を見ている気がしますよ」
ルヴァは嬉しそうな声でそう言葉を紡ぐと、隣のアンジェリークをちらと見た。退室の合図だと気づいたアンジェリークが締めの言葉を口にする。
「それじゃあそろそろわたしたちはお暇するわ。ゆっくり休んでね」
立ち上がる二人を目で追いながらポピーはきゅっと唇を引き結び、深々と頭を下げた。
「あ……はいっ。あの……色々とありがとうございました」
先にアンジェリークの退出を促した後、ポピーの周りに無造作に置かれた差し入れの数々を手提げへと戻し入れながらルヴァが話し出す。
「あなたの状態が良くなったら使いが来ますからね。次は謁見の間でお会いすることになるでしょう」
手提げをポピーに手渡したときにマーリンの視線とかち合った。微かに頷くとゆっくりマーリンが立ち上がる。
「お二人を見送りしてくるぞ。ポピーは横になっていなさい」
はい、と小さな声がマーリンの背中に投げかけられた。
先程の待合室にアンジェリークは座っており、ルヴァとマーリンの姿を視界に捉えるとにこりと笑みを浮かべた。
「マーリンさんとちょっとお話したかったの、お時間いいかしら?」
以前と変わらぬ鈴の鳴るような声音と笑顔に、マーリンが相好を崩す。
「勿論ですとも」
その言葉にアンジェリークがひとつ頷いてルヴァへと視線を送り、彼が話を切り出した。
「ポピーが罹患していた感染症について、研究院から調査結果が出ました」
しんと静まり返った室内に、ルヴァの声が淡々と響く。
「ごく一部の星系で発見されている人獣共通感染症で、そちらではラグトネラ菌と名付けられた菌の感染によって起きる感染症です。動物から人への感染力自体はかなり微弱なものなんですが……そちらの世界では大流行しているんですよね?」
星によって文明の度合いは様々だ。ある惑星ではワクチンが開発されとっくに撲滅していても、別の惑星では治療法すら見つかっていないこともざらにある。
優れた魔法文明はあるが馬車と船以外の交通手段がほとんどなかったあの世界では、目に見えない細菌がとても恐ろしいものとして認識されているのだろう────とルヴァは考え、更に言葉を続けた。
「この感染症の症状は、二、三日の潜伏期間を経てから皮膚に虫さされのような丘疹ができ、およそ二週間に渡ってリンパ節の腫れと痛み、関節痛、発熱、悪寒、倦怠感などの風邪の様な症状が出現します。目立った外傷がなければ風邪と誤診されることが多く、体力のない者はやがて重篤に陥るため、決して油断はできません」
マーリンがグレーの瞳を翳らせて、重々しく話し出す。
「仰る通り、我々の世界では現在魔物を介して人へと感染する疫病が発生しておりましてな。一部の魔物たちが人を引っ掻いたり咬んだりして感染していると言われております。その疫病はどんな薬草も回復魔法も一応効くものの、完治しないためかけ続けなければならないのです……術者が力尽きるまで」
休めば回復できる魔力でも、それを遥かに超えるダメージの前に幾人もの回復呪文の使い手たちが疲弊し次々と倒れ、回復の手立てを失った患者がその尊い命を散らし続けている。
既に世界各地の道具屋では薬草の価格が数十倍に跳ね上がり、経済的に余裕のない者はただ悪化して弱るのを待つだけだ。
作品名:冒険の書をあなたに2 作家名:しょうきち