冒険の書をあなたに2
これからどんな異形になるのか、皆目見当もつかない。今はまだ人の形でいるけれど────と、ホイミンは心で呟き、一度瞬いた。
「人の姿を保っていられれば、問題ないだろう?」
力を制御できるのなら、恐らくその道もあるのだろう。だがホイミンにとって、その道はうまくいかなかったときに絶望しか残らない。人でなく、魔物とも言えず、対となる存在もない。ただ一匹の化け物として隠れながら生きて一体何になるのかと、ホイミンは自嘲気味に笑う。
「そうまでして生きる理由もありません」
きっぱりと告げられた言葉に、深い覚悟を感じ取った男がそっと目を伏せた。
「……成る程、理解した」
ひとつ頷いて言葉を紡ぐ。低く穏やかな声音には仄かに威厳が滲み出て、ホイミンはふと、どこかで聞いた覚えがあったような錯覚を起こす。
男がゆっくりと片膝をつき、ホイミンと視線を合わせ、真顔で言葉を続ける。
「ならばその命、『彼ら』と引き換えにして貰いたい────歴史の通りに」
男から告げられた内容をすぐには飲み込めず、ホイミンはオウム返しで呟きを漏らす。
「歴史の、通りに……」
どのみち何がしかの理由で本来の寿命を全うできないということか────と思い至り、先程の「その体で生きていくか」という問いに込められた意味を悟った。生きたいと言えば、事実その通りになったのかも知れない。
「今は本来の歴史とは違うんですか」
ホイミンの疑問に男は頷き、言葉を続けた。
「君に進化の秘法は施されていなかった。あの者たちも来ていない」
言葉の途中で視線はちらりとイゴーやリュカたちのほうへ向いた。その顔からは何の感情も感じられない。
「でも、天寿を全うしてはいなかった?」
男は一瞬驚いた顔を見せ、それから取り繕うように小さく咳払いをした。
「……酷なことを言うが、その通りだ」
「どうなっていたのか、伺っても?」
平然と問うホイミンに対し、男はぐっと言葉を詰まらせた後、言いにくそうな素振りで重い口を開く。
「…………ある魔物を救おうとして、身代わりになった」
「なんだ、それなら良かった」
ふふと笑みを零したホイミンを見て、男が怪訝な顔になった。
「これから魔物たちに慕われる王とその仲間を救うのなら、元の歴史とそんなに違わないじゃないですか」
穏やかに笑んだままきっぱりと言い放つホイミンを、眩しそうに見つめる。
「君は、本当に……どこまでも稀有な存在だな」
感極まったように目を伏せた男の顔をホイミンはじっと見つめ、思ったことを口にした。
「あの……私、前にあなたと会っていますよね?」
ぱちりと目を開けて真っ直ぐな視線が向く。
「何故そう思う?」
ホイミンは人差し指を顎に当てて、宙を見る。
「うーん……気配って言うのかな、知ってる感じがしたので」
ホイミンの視線が逸れた刹那、勘のいいことだと男が呟いたが、それも僅かに唇が動いただけでホイミンは気付かない。
「……気のせいだ」
苦笑気味にそう言って、白藍色の瞳はどこか切なげに細められた。
「そう、ですか……まああなたの顔に見覚えはないですしね。やっぱり気のせいかな」
男の視線がちらりとイゴーを捉え、ゆっくりと立ち上がった。
「さて、余計な話はそろそろ終わりにしよう」
「あ、はい。私は何をすればいいんですか?」
「この曲を弾いてくれ」
言いながら、人差し指でホイミンの額の中央に触れた。
パッと光り輝いて眩しさに思わず目をつむると、瞼の裏に譜面が流れ、驚いたホイミンはすぐに目を開けた。
「こ、これ何ですか!?」
「譜面だ。目を閉じればまた最初から出てくるが……不便だろうか」
「目は開けたいですね……初めて演奏するので」
「ふむ、そうか。では場所を変えてみよう」
人差し指はホイミンの目の前の空間を仕切るように四角く枠取られ、その中に譜面が現れた。譜面は白く光を放ち浮かび上がり、透明な板でも置いているかのようだ。
「一度練習してみるか?」
「は、はい」
譜面に沿って弦を爪弾くと、演奏した箇所の光が白から赤に変わっていく。
演奏中、男はホイミンの足元に手を翳し、小声で何かを呟いていた。
曲の終わりまであと数音というところで、「止め」と制止が入る。
「演奏できそうか」
「そうですね、特に難しくはなかったです」
ホイミンの答えに満足したらしい男は、口の端を持ち上げた。
「そうか。では私がリュカをあれから出し、攻撃を防ぐから……君は演奏に集中して欲しい」
リュカの名を呼んだ男に対し知り合いなのかと問いかけたかったが、既に柔らかい雰囲気は消え失せていたために機を逃した。
男が手のひらで譜面部分を上からなぞると、色の変わった部分が白く戻っていく。
それへ一度目を向けた男は何かを考えこんでいる様子で、時間にして二、三秒ほど目を閉じ、それから真剣な面持ちで話し出す。
「……確認のため今一度問う。これが君にとって最後の演奏になるが、それでもいいか」
「構いません」
砂を噛んだように苦り切った顔の男に対し、ホイミンの表情は思いの外晴れやかで、迷いなく言葉が溢れた。
「君の良心に付け込む真似をして、本当に申し訳ないが……心より感謝する」
色々な感情が混交するままに、男は深々と頭を下げた。
「無理を言う代わりに、君の願いは必ず叶えよう。何がいいか考えておいてくれ」
「えぇ……?」
命を懸けろと言われたのに、願いごととは────と、さっぱり意味が分からないホイミンは戸惑いの声を出した。
「全て済んだら、ゆっくり話そう」
そう言って男は笑ったが、儚い笑みがどこか辛そうにも見え、ホイミンは曖昧に頷きを返した。
長槍を持ち直した男がどこか遠い視線でイゴーを見つめ、それからゆっくりとホイミンを振り返る。
「準備は?」
「大丈夫です。いつでもどうぞ」
「君には既に結界を張ってある。イゴーの攻撃程度なら気にすることはない」
すんなりと出てきた名に、ホイミンは僅かに首を傾げた。
(……あの人のことも、知ってるのかな……?)
その問いも言葉にはならず、そのまま飲み込まれた。
「私が飛んだら、始める」
頷きを返したホイミンは、竪琴に指を添えた姿勢でじっと成り行きを見守る。
少し腰を落とした男の背、純白の翼がはさりと軽やかな音を立てて広がった。革のブーツが床を蹴り、それと同時に静止していた風景に動きが戻る。翼の浮力のせいか、地面を蹴り出す際の音はごく僅かだ。しなやかな飛翔で彼はあっという間にリュカの目前に舞い降りた。
イゴーが気付くよりも先、リュカに当たらぬ位置目掛けて長槍が真一文字に汚泥の塊を切り裂く。
それまで巨大な手を模っていた汚泥は風船の破裂よろしく弾け、あっけなく床に飛び散った。
周囲を包んでいたものが失われたことでずぶ濡れのリュカが倒れ込み、それを目撃したホイミンは思わず駆け寄ろうとしたが、そこで譜面の音符が流れてきたために慌てて竪琴へと意識を切り替え、一音も漏らさぬよう奏で始める。
イゴーは水音の鳴った方向へ顔を向け、そして息を呑んだ。
「……カカシュ」
男の登場が想定外だったと分かる掠れた声音にも、カカシュと呼ばれた男は眉一つ動かさない。
作品名:冒険の書をあなたに2 作家名:しょうきち



