冒険の書をあなたに2
厳つい顔には複雑そうな表情がありありと浮かんでいて、自分が割って入るべきではないとの思いが消えない。
ホイミンはそんな気配を察知したのか、直ぐに外堀を埋めてきた。
「いいでしょ、ライアンさん」
にこにこと可愛らしいお願いに、ライアンの太い眉が八の字に下がった。
「……好きにしなさい」
少しの呆れを含めながらも、誰かが居ればしみったれた感情に支配されることもなさそうだ、と気持ちを切り替える。
「えへへ、ありがとう」
ホイミンの青空のような瞳がじいっとライアンを見詰め、ライアンもまた黙して視線を返す。沈黙を破ったのはまたしてもライアンの方だった。
「……人間になれたばかりじゃないか。どうして死に急ぐ」
どうして、何故────頭の中で延々と渦巻く問いを、ライアンは止められなかった。世界は平和になって、人々の移動も格段に安全になった。再会を果たしてこれから互いの近況を伝え合うような、そんな交流ができると思っていたのにと、沸々と湧き起こる怒りにも似た強い感情が、苦く胸を満たした。それはライアンの喉をきつく締め付けて、その後に続く筈の声と言葉を奪っている。鈍い痛みだけを残して。
何かを言いかけて口を閉じたライアンへ、ホイミンがゆっくりと話し出す。
「人間になる機会を特別に与えられただけだから、元々の持ち主をこれ以上苦しめたくないんだよ。静かに眠らせてあげたい」
そう言って自分の手のひらに視線を落とす。
この体の持ち主は、進化の秘法で命を落とした恋人を思って嘆き苦しんだ。その彼に、悲劇を重ねがけするような真似はしたくない。
「今はホイミンのものだろうに」
ライアンの言葉に、空色の瞳が小さく揺れる。
「魔物のときの記憶があるのって、やっぱり変だよ。だから……これでいいんだ」
乾いた唇をきつく引き結び、ライアンは頭を振る。
「私にもう一度、おまえを、埋めろと言うのか……」
途切れ途切れに振り絞った低い声は微かに震えていた。ホイミンがどう答えようかと逡巡していた間に、次の一言がぽつりと続いた。
「酷なことを」
黒に限りなく近い、ライアンの群青の瞳が苦しげに揺れている。
旅の途中────焚き火に照らされたライアンの瞳は、森の遥か向こうに見えた星月夜の色に似ていて、ホイミンはその眼差しに見守られながら眠りについていたことを思い出す。
ぐっと言葉に詰まったついでに、ホイミンの視界も潤む。
「ぼくね……ライアンさんには幸せでいて欲しいんだ。今のぼくは借り物の姿だから、幸せにする役は誰かに譲るよ」
一人と一匹の旅の記憶が孤独を埋め、長く心を支えてくれた事実に、ホイミンは感謝してもしきれない。
言葉の代わりに後から後から止めどなく溢れ出す涙を、荒れた指先が拭う。やすりのような皮膚で痛みを与えぬようにそうっと頬を通り過ぎる熱の優しさが嬉しくて、でも胸の中ではぐさりと抜けない何かが突き刺さってしまったようだった。
「へへ……実はね、新しい夢ができたんだ」
頬を濡らしながらもはにかんで告げる顔は、黙っていれば美形の筈が随分と幼く見え、かつての姿を彷彿とさせた。
思わず片眉を持ち上げて続きを急かすと、ホイミンは両手で口元を隠してふふと笑う。
「人間とか、魔物とか……そんな垣根のないところで、ライアンさんと家族になりたい」
希望に満ちた内容に、明るい声音に、ライアンは僅かに微笑んだ。
「ライアンさんの子供は、きっとリュカさんみたいに強くて優しい子になるんだろうね」
無邪気な問いかけに、ライアンは瞬くだけで暫く言葉が出なかった。
「…………どうだろうな」
そんな未来は訪れないかもしれないと思っての否定だったが、そこでホイミンがふいに真顔になる。
「ねえ、ライアンさん……」
「うん?」
「いつかまた会えたらの話なんだけどさ……そのときはいい子で待ってるから、お嫁さんに立候補してもいいかな」
「……私の?」
思いもよらぬ話に目を丸くさせたライアンが問うと、花開くような笑みを浮かべて大きく頷く。
「願ったらね、ちゃんとかなうんだって分かったから、今度はライアンさんが一目惚れしちゃうくらい、綺麗で可愛い女の子になるんだー」
へへと笑って両手で顔を覆う。照れを隠したつもりが、指の隙間からしっかりとライアンを見つめている。
「わざわざこんなのを待たなくても、おまえなら引く手あまただろうに。物好きだな」
「うん。それでね、高い塔からライアンさんが来るのを待つの。塔はほら、一緒に冒険もしたし、それってなんだか童話のお姫様みたいじゃない?」
物好きと言ったにも関わらずあっさり頷かれ、思わず笑いが零れた。
余りにもあっけらかんと途方もない話をし始めるので、頑固な彼が決めたことなら、男として潔く尊重しようじゃないか────素直にそう思えて、ホイミンの夢物語に思いを馳せる。
「そうだなあ……おまえを連れ帰るのなら、私はホイミのひとつでも覚えて、もっと守れるようになりたいものだな」
いつもの声音で話すものの、すんと鼻をすする。
高い鼻の天辺がほんの少し赤らんでいるのを、目が潤んで真っ赤に充血しているのを、ホイミンは一切見ないふりをして会話を繋ぐ。
「ライアンさんがホイミしちゃったら、ぼくのお役御免になっちゃうね」
「ではその上のべホイミを覚えられるよう、願うとしよう」
「もっとダメでしょ!」
旅の最中でも交わされていた軽快なやり取りに、二人は声を上げて笑い出す。目尻に光る粒を拵えながら。
やがてその笑いがさざ波のように引いていくと、一瞬口元をぐにゃりと歪ませたホイミンが言葉を繋いだ。
「ライアンさんが、ぼくみたいな魔物のことも大切にしてくれたの、嬉しかったよ……だから、ぼくは、みんなで一緒にいられる日が来ることを願うんだ」
そこでちらりとリュカを見る。彼が話してくれた、遠い未来の不思議な国の話を思い出しながら。
「そんな未来があるって、そんな国があるって、リュカさんが教えてくれたから……」
伸ばされた片手をリュカはしっかりと握り返す。また見送る立場になり、この場に適した言葉は何一つ出てこなかった。喉を過ぎるのはただ嗚咽と痛みばかりで、それを腹に力を入れて堪えている。
そんなリュカを見たホイミンは、あやすように繋いだ手を上下にとん、とん、と動かす。
ライアンが顔を上げた。先程まで壁に寄りかかっていたカカシュが近づいてきている。それに伴ってか、ホイミンが再び弱り始めた────時間切れだ。
「ホイミン……! ホイミン、まだだ、しっかり目を開けろ!」
名を呼ぶライアンの声も、リュカの声も、少しずつ遠ざかっている。視界も同じく白んできて、霧の中にいるようだった。
残り僅かな時間を惜しみ、ホイミンは再び動かしにくくなった唇を必死に動かす。
「名前や姿が違っても、絶対また巡り合えるよ。願ったら……かなうもの……」
目の奥が熱くなって、栓が壊れたのかと思うほど涙がどっと溢れた。そしてその涙もまた、ライアンが幾度も拭う。
「……いつか、探しに来てね。何があってもついていくから、ぼくを、攫って行って……」
作品名:冒険の書をあなたに2 作家名:しょうきち



