冒険の書をあなたに2
眉間の皺を深く寄せ、マーリンの短くも鋭い詰問は続いた。
「では質問を変えよう。何故ここへ来た」
「オレの知らない世界を知りたかっただけだよ。誰も知らないことや忘れていくようなことを覚えて、教えて、びっくりさせるんだ。時々相手が死ぬけどな」
倫理観については十分に魔性と言える話しぶりに、ルヴァが呆れて乾いた笑いを浮かべた。
「死の呪文を唱えたら、そうなりますねえ……」
「そいつは死ぬけど、そいつの知識なんかはオレの中に蓄えられるんだから、別にいいだろ?」
何が悪いのかさっぱり理解していないと分かり、マーリンもまたがくりと肩を落とす。
「それでいいのはおまえだけじゃろうに……全く身勝手な屁理屈をこねおって。ではそれ以外、自分のことについては覚えておらんのだな?」
「うん」
悪魔の書はごくあっさりと返答し、再びルヴァの周囲にまとわりつく。
「……良かろう、ならばあぶり出すまでよ────メラ!」
マーリンの手のひらの上に小さな火の玉が現れ、その光は熱と共に悪魔の書を照らし、絨毯敷きの床に影を落とした。
強い光を浴び濃さを増した影────そこに写し出されたのは、悪魔の書そのままの形ではなかった。
たてがみの長い馬の影が絨毯の上で前足を上げ、いななきが部屋に響いた。
ルヴァは驚いた様子で目を僅かに見開き、ただじっとその影の動きを凝視している。
手のひらの上の火の玉を握り込み、マーリンは何事もなかったように片手を下ろして言葉を紡ぐ。
「これがこやつの正体……かつて魔神や悪魔、不浄の霊などと呼ばれ、封じられたものと思われますな。本に封じられこうなったか、本体から切り離した結果、本を依代にしているのかは分かりませんが……その辺りを詳しく知る必要はない」
刃を思わせる鋭い視線がふいに緩み、いつものどこか愉快そうな表情へと戻ったマーリンがそう言うと、ルヴァは小首を傾げる。
「本体が馬の姿……なんですか?」
「いいえ、それもまた恐らくは仮の姿でしょう。七十二の悪魔の話をご存知ですかな」
そこで初めて理解したルヴァが、瞠若の色を滲ませた顔でマーリンを見た。驚きのまなざしを受け、マーリンがにやりと口の端を上げて話を続ける。
「先程の話を信ずるとして、知識と知恵を求めやって来たのならば……考えられるのは第五十五の悪魔でしょうな。それ以外のものであれば嘘をついているやもしれんが、第五十五は誠実な性格で召喚者を欺かぬと言われております。どうやら書物の魔物となって以前の記憶もないようじゃから、再び名を与えても特に問題ないでしょう」
マーリンが言っているのは、悪魔召喚とその契約の話である。
魔性の類を入れてはならないこの聖地で悪魔を召喚し使役するなどもっての外だ、とルヴァは内心冷や汗をかく。そもそも自ら好んで呼び出したわけではなく、遭遇したから対処しただけなのだ。
「……契約にはならないと?」
なんだか面倒なことになってきた、と思いながら恐る恐る尋ねる。
「その通り。リュカと同じく、魔物使いになるだけでしょうな!」
そう言ってさもおかしそうに膝を叩いたマーリンが、悪戯っぽく目を細めてルヴァに話を持ちかける。
「しかし、守護聖様が悪魔を従えるなど言語道断でしょうからの、そやつはわしに譲ってくれませんか」
どうぞとルヴァが言いかけたとき、悪魔の書が飛び上がって顔にべちんと張り付き、彼の言葉を遮った。
「やだー」
鼻に思い切りぶつかってきた悪魔の書を引きはがし、ルヴァは嘆息する。
「嫌だと言われましてもねえ。こちらとしては正直どうでもい……マーリン殿のほうが、きっとあなたを大切にしてくれると思いますよ」
うっかり漏れ出た本音を誤魔化しつつマーリンへ手渡そうとしたところ、全力で嫌がられた。
「いーやーだー!」
掴もうとしたマーリンの両手をかわしてぴゅんと戻ってきた悪魔の書が、今度はルヴァの胸元にべったりと張り付いている。
禍々しい見た目とは裏腹に随分と素直な態度は、ルヴァの庇護欲を見事に刺激した。
「……そんなに私の側がいいんですか」
「うん」
即答する悪魔の書を見て、マーリンはやれやれと肩を竦めてみせる。
「ここまで懐かれてしまっては、どうしようもありませんなあ」
頼みの綱がこうもあっさり折れてしまっては、ルヴァとしても当てが外れてしまったと言う他ない。
「はー……仕方がないですね。あなたを呼んではいないんですから契約はしませんし、私の良き友人としてならいいですよ。それでいいですか?」
「おうよ!」
威勢のいい返事にマーリンはもう一度がっくりと肩を落としつつ、ルヴァへと視線を流した。
「では賢者様、この者に新たな名を」
小さく頷いたルヴァが片手を差し出して、悪魔の書がゆっくりとその手の上に乗る。
「…………オロバス」
穏やかに発された声は慈悲深い響きを持って部屋に拡散した。
今は書物の魔物として世を生きる彼に、かつて呼ばれたであろう第五十五番目の君主たる悪魔の名が再び授けられたのだ。
「それ、オレのなまえ?」
どこか誇らしげにそう尋ねた悪魔の書へ、ルヴァは頬を上げて答える。
「そうですよ。悪魔の書ではちょっと長いんで、これからはそう呼びますねー」
「うん、分かった」
「それとね、ひとつ約束して欲しいんです」
「なーに」
「人を殺めたり傷つけたりは、決してしないように。できないのならマーリン殿経由リュカ行きです」
真剣な面持ちでそう話すルヴァを援護するように、マーリンが言葉を繋いだ。
「リュカに渡ったら高確率でモンスター爺さん預かりになるからな、覚悟せいよ」
モンスター爺さんという存在は一度だけルイーダの酒場で聞いた、と心の中でルヴァが呟く。
オロバスはマーリンの言葉に心底嫌そうな声で答えた。
「爺さんから爺さんとこ連れてかれんの? それはやだな……分かったよ」
嫌悪感たっぷりの声音に、ルヴァは不思議そうに手の中に納まっているオロバスを見下ろして問う。
「お年寄りが苦手なんですか?」
ルヴァとしては、悪魔の書を手にした姿を想像すると自分よりもマーリンのほうがしっくりくると思っていた。
悪魔学についてもどうやら熟知している様子のマーリンを毛嫌いするのは何故だろうと頭の中で疑問符が飛び交う中、彼の手の中からするりと抜け出したオロバスが沈んだ声で話し出した。
「んー……爺さんってさ、高確率で指ベロってしてから触ってくるから、唾つくだろ」
「ああー……そういう事情でしたか」
脂に塗れた指で本が汚れてしまうからという理由でフライドチキンをあまり好まないルヴァにとって、彼の説明は納得のいくものだった。
だが「爺さんを十把一絡げにカテゴライズする」という、そのあまりにもな偏見が彼の実体験に基づいたものだろうと考えた矢先、ルヴァはじわじわとこみ上げてくる笑いをどうにか噛み殺す。そんなルヴァへ向けて、オロバスの言葉は続く。
「あんたはそうじゃないって、オレには分かるよ。そこの爺さんもそれなりに大事にはしてくれるだろうな。でもその先の、リュカとモンスター爺さんとかいうやつらが、オレをどう扱うかは分からない。だったらあんたの側にいたほうが安全だ」
作品名:冒険の書をあなたに2 作家名:しょうきち