冒険の書をあなたに2
「敵認定されればそこに集まってくるから、ぼくが出向いてぶっ壊してくる」
「オリヴィエ!! おい、離せ……っ!!」
オスカーの切羽詰まった大声が聞こえてきて、ぎょっとした守護聖たちは一斉に視線を向けた。
そこには、両腕を目一杯伸ばし助けようとしているオスカーを何とか押さえつけているマーニャとミネアの姿。
三人の前には、魔法陣の中央から伸びた巨大な手────リュカを捕らえたのと同じ汚泥の手がオリヴィエを飲み込んでいた。
魔法陣の内側にはそこに池か何かがあるような波紋が輪を作り、その中央でオリヴィエは無抵抗のまま沈む────成人男性の中でも大柄に属するオスカーであれば姉妹など振り払うのは容易だったものの、女性に乱暴な真似をしたことがない彼にとってその選択自体頭に浮かばないまま、声を限りに名を叫んでいる。
竪琴の音色に乱れが出た────魔法陣に飲み込まれる様を目撃したリュミエールの目が驚愕に見開かれていると知り、クラヴィスが近付いて声を張る。
「手を止めるな、リュミエール!」
「は、はい……!」
はっとした顔で意識を弦に向け、速度を落とした演奏が元に戻った。
クラヴィスはリュミエールの前に立ちはだかり、躊躇うことなく闇のサクリアを解放させた。明らかに威嚇の意味を持って解放されたサクリアに、幸いにもあえて近づいてくる魔物はいなかった。
ルヴァはその間にリュカへバイキルトをかけ、言葉もなくすぐに駆け出していく猛者をちらと見送ってから振り返る。
「クラヴィス、その調子でお願いしますよ。もしこの曲が私の知っている曲と同じ効果なら、勝利を引き寄せられるはずです」
そう願いを込めながら、ルヴァは鞄の中から水晶球を取り出す。
淡く輝いていたそれは、曲が進んでいくにつれ黄金の輝きを増している。
「陛下……どうか私たちに、お力を……」
黄金の光はそんな小さな呟きを飲み込んで、より一層強く強く光り輝く。
重苦しい闇の中で、女性の声が聞こえてくる。
「オリヴィエ。オリヴィエ、目を開けて」
幾度も名を呼ばれ、オリヴィエは鉛のように重い瞼に力を入れてどうにか持ち上げた。
「あぁ、良かった。あなたまた捕まっちゃったのね」
聞き馴染みのある声の持ち主が、翠の瞳を少し潤ませてこちらを覗き込んでいる。
「……へい、か」
声を出すと粘性の高い泥水が喉に絡まり、思い切り咽せ込んだ。
アンジェリークはすぐに祝福の杖を翳し、優しい光がオリヴィエの体を包み込む。
じゅっと音を立てて、体にまとわりついていた泥水が跡形もなく蒸発していった。全身を覆っていた重苦しさから解放されたオリヴィエは身を起こして跪き、頭を垂れた。
「女王陛下、あの……ここは」
先日のような神鳥の姿ではなく、いつもの姿で小首を傾げながらアンジェリークはぱちぱちと瞬いた。
「前にあなたとお話しした場所と同じみたいよ。時空の狭間なのか、誰かの夢の中なのか……考えられるものはいくつかあるけど、まだはっきりしていないの」
続けて変な空間よねと笑いながら言っているが、言われたオリヴィエは同調もできず曖昧な表情を見せた。
足元に現れた魔法陣を躱し切れず、ずるりと何かに飲み込まれた。感覚としては水中に頭ごと押さえ込まれたような、酷い暴力の記憶だけが薄く残っている。息ができずに視界が暗転してから、ここでどれだけの時間を浪費していたのか────戦場と化したあの場所には、まだ他の守護聖たちが残っている。急いで戻らなくては────そんな焦りが心の中に満ち始めた頃、アンジェリークがあっけらかんと妙な質問を投げかけてきた。
「ところでオリヴィエ、そちらに小さい子はいませんでした?」
「子供……ですか。ゾンビみたいな赤ん坊ならいましたが」
人差し指を顎に当て、うーんと考え込んでから話し出す。
「赤ちゃんじゃないわね……五歳か六歳か、それくらいの子よ」
「それは……申し訳ありません、見てないです」
「そう? じゃあまだここにしかいないのかしら」
相変わらず能天気な態度に少々毒気を抜かれながら、オリヴィエは怪訝な顔をする。
「あの……話が見えないのですがー……」
「たぶん、同じ人がそっちにいると思うんだけど」
ますます話が理解不能になってきたオリヴィエは片眉を持ち上げて、やれやれと両肩をすくめた。
「……あんたまでどっかの地の守護聖みたいになんないでくれる? アンジェリーク」
その口ぶりは、今となっては完全に不敬罪に当たる。だが言われたアンジェリークはぱっと表情を明るくさせて、満面の笑みを浮かべた。
「ふふっ、ごめんなさい!」
口の前で可愛らしく両手を合わせ、どこか嬉しげだ。こちらの気苦労も知らないで────とは思うものの、昔と変わらない愛らしさに頬が緩む。
「悪いんだけど、今だけ女王と守護聖って立場、取っ払っちゃっていい?」
「勿論よ、気にしないで」
「ん、ありがと。で、子供がなんだって?」
彼女がまだ女王候補生だった頃、兄のような役回りで接していたことを反芻しながら、懐かしくも甘い感傷に浸りかけた己を戒める。
「さっき倒れてるあなたをね、小さい子がずっと掴んで離さないから、オリヴィエを返してねって言ったのよ。そしたら逃げちゃって」
「逃げた……?」
「ええ。耳の尖った、真っ直ぐな白金の髪で薄紫の目の子よ。知らない?」
身振り手振りを交えたアンジェリークの説明に、オリヴィエは一人思い当たる人物に辿り着き、ぞっと背筋を凍らせる。
「……何もされてないよね?」
「えっ? ええ、声かけたら一目散に向こうへ行っちゃったから」
質問の意図を掴み切れないのか、不思議そうな顔をしたアンジェリークが宝石のような翠の瞳を真っ直ぐに向けてきて、見つめ返すと酷く落ち着かない。
「そいつ、イゴーだと思う。こっちのは成人してるけど、特徴は一緒だよ。当人か近い身内か……」
「まあ……あの綺麗な子が?」
そこで言葉が途切れ、こくりと喉が動いた。言葉を探すに必要な間が生まれ、小さな唇からおずおずと発された言葉が音を持つ。
「オリヴィエ、に、用があるのかしら……?」
ここは向こうの領域と言っていい。発言に難があれば出られなくなる可能性も秘めていたため、アンジェリークは咄嗟に言葉を選んだ。
狙われているのではないかと言いかけたのを無理に飲み込んだお陰で奇妙な途切れ方をしたが、飲み込まれたほうの意味を受け取ったオリヴィエが頷く。
「分からないけど、私だけこんなところに落っことされてるしねー……その可能性も視野に入れた方が良さそう」
「どうしてかしら」
口元を押さえて考え込む仕草は、彼女の恋人である地の守護聖と酷似していて微笑ましい。
「こっちが知りたいわー……気味が悪い」
「……まだこの空間のどこかにいるのかも知れないわね。わたしが探してみるから、オリヴィエは戻ってて」
「な、に言ってんの!? 一人でなんてダメに決まってるでしょ! それなら私も一緒に────」
護衛役を買って出ようとした発言に、アンジェリークは拒否の意を示す。
「ここではわたしのほうが動けるでしょ、もしあなたに用があるなら伝えてあげられるし」
作品名:冒険の書をあなたに2 作家名:しょうきち



