冒険の書をあなたに2
呟くと同時に目を閉じる。頼りにならない視力に頼るよりも、それ以外の感覚を研ぎ澄ませて気配を追うことに集中したライアンは、僅かな空気の乱れを感じ取りすかさず水平に剣を回した。切り裂いた濃霧の先に目を凝らすと、先程よりは開けた視界に汚泥が見える。
ライアンが斬りつけるよりも先に、散らばった汚泥の一片が広がり大口を開けて飛びかかってきた。鋭い牙を持つ口が眼前に迫るが、霧状よりはむしろ戦い易い、とライアンは闘志を燃やす。
刹那、息を止め肩の高さに構えた剣で迎え撃つ────体に噛みつく寸前の瞬間を見計らって強く踏み込み、刺突した。真っ直ぐ獲物の喉奥を貫いた剣を、そのまま水平に滑らせる。
ぶちり────汚泥には本来ないはずの臓物を裂く感触が手に伝わり、その異質さが薄気味悪い。そしてライアンがこの獲物の恐ろしさに気付いたのは、それからすぐのことだった。
通常の生き物や魔物であれば、この攻撃で即死、或いは瀕死に近い状況になる。だがこの得体の知れぬものは、裂かれてもすぐに繋がって復活を果たすのだ。体がゼリー状のスライム属も似たような面はあるが、ここまでではない。ばっくりと裂けた場所がくっつき、最初からダメージがなかったかのように元通りになっていた。
霧によって視界が遮られている中、他の面々も同様の状況なのだろう、あちこちから呪文の詠唱や攻撃の音が耳に届いた。
(……苦戦しているのか)
勇者であるソロのギガスラッシュ、ティミーのギガデインにピサロのジゴスパークなど、これまで強敵にも通用している攻撃ですら手応えのない様子だった。
強力な技を持たぬ剣士と自認しているライアンは、周囲から聞こえる状況に驚きを隠せない。会心の一撃を連続で繰り出したアリーナですら「何なのよ!」と声を上げているのだから。
小の眼球は、散らばる一片のあちこちに移動していた。
消えては別の一片から現れ、ぐるぐると泳ぎ回り、一行をくまなく見つめる。
別の一片にはライアンを襲ったものと同じような口が生え、鋭い牙で噛みつこうとする。
猛者揃いの一行にとっては大した攻撃ではなく、すぐに斬り捨てたり呪文で倒せる程度のものだ。だが、どれも消滅はせずに飛び散っていくだけで終わりが見えてこない。
攻撃の手を止めると緩やかにくっついて、人の形に変わろうとする。
霧が晴れてきて、視界が徐々に戻っていく。視界の先でスライムのように繋がって盛り上がり、じわじわと完成していくさまをリュカはきつく睨めつけ、左手をさっと掲げた。
「────全員、総攻撃。行け!」
「御意!」
主の指示に応えたピエールが特攻し、他の魔物たちも一斉に続く。
自らも突撃しようとするリュカへ、ソロが声をかけた。
「行くのか?」
ニイ、と歪に笑んだリュカが目を細めて答えを返す。
「復活できないくらい立て続けに壊したらどうなるか、ちょっと実験してみない?」
どのような手段を用いても勝ちを狙い、追い詰められるほどに冴える五感────彼の右腕の騎士ピエールや子供たちなら、今のリュカが狂人じみたゾーンに入ったと分かるだろう。そのことを知らないソロだったが、どこか伝わるものがあったのか、彼もまた歪な笑みでもって応える。
「ははっ、それ面白そう。乗った!」
気分の高揚と共に体の内側から熱が沸き出でる感覚がして、昂るままに声を張る。
「ぶっ潰すぞ!」
ソロの雄々しい一声に、アリーナが真っ先に歓喜する。
「待ってましたー!」
両腕を上げて大喜びのアリーナを、ブライが窘める。
「これ姫様! 何とはしたない!」
だが既に俊足で駆け出していたアリーナにその声が届くことはなく、ブライはそれも想定内と言わんばかりにへの字口で肩を竦め、おとなしく呪文の詠唱に入った。
一足早く詠唱が完成したミネアのバギクロスが猛威を振るい、一つにまとまりかけていた塊を千々に粉砕し、弾け飛んだ欠片が濡れた音を立て守護聖たちの近くへと落下する。欠片は成人男性の腕ほどの大きさと長さだったが、伸縮自在でにゅるりとヒルのように伸び、牙をむき出しにしてクラヴィスへと襲い掛かった。
「……来るか」
ガードを外し手にしていた毒針で迎え撃つ。だが細長い上に素早く動き回る汚泥の欠片にはかすりもせず、左腕に勢いよく噛みつかれた。
「ぅぐ……っ!」
痛みに顔をしかめたクラヴィスは噛みつかせたまま足で踏み押さえ、動きを封じてから毒針を突き刺す。ぎゅう、と空気の漏れたような鳴き声をあげて口を離した。
黒衣を通り越して溢れた出血が数滴、地面に滴る。
一本が中指の長さほどの鋭利な牙には、今しがた噛みついていたクラヴィスの血がまとわりついていたが、毒針のダメージではくはくと口を開閉させ地面をのたうっている。
体制を整えて再び襲い掛かろうとした矢先、ルヴァの理力の杖から飛び出した白刃が塊を二つに割いた。
割けて離れた二つの塊をオスカーとオリヴィエがそれぞれ剣で刺突し、串刺しのそれを遠くに放り投げた二人はすぐにクラヴィスの元へ駆け寄ってきた。
「大丈夫!? うわ、酷い怪我」
オリヴィエは痛そうと小声で続け眉根を寄せたが、クラヴィスの顔色が更に青白くなっているのを見たオスカーがルヴァを呼ぶ。
「癒しの柳絮よ、ここに……っ!」
駆け寄りながら唱えた回復呪文が傷を癒し、クラヴィスは袖をめくって肌を確認し、溜息混じりに呟きを漏らす。
「……袖が重いな……」
問題はそこかと心で突っ込みつつも、ルヴァは安堵で顔を緩ませた。
「まだ濡れてますからねえ……それはどうしようもありませんね」
片膝をついた姿勢から立ち上がりかけたそのとき、オリヴィエに強く肩を押されたルヴァは中腰のまま固まった。
「ルヴァ、もう一回来るよ!」
そう伝えたオリヴィエと入れ替わるようにしてオスカーが並ぶ。
放り投げたのとは別の個体がアメーバのように伸び、こちらへ飛び掛かってきていた。それをオリヴィエが切り上げ、颯爽と駆け抜ける。分割した汚泥は屈んでいたルヴァの頭上を通り過ぎ、オスカーが刺突して更に遠くへと放る。
汚泥の中には血走った小さな目玉が複数蠢いているのが見え、その視線の先は方々に散り、孵りかけの魚卵や両生類の卵にも似ている。
先程までミネアと話し込んでいたリュミエールが、真顔で竪琴を奏で始めた────穏やかな笑みを絶やさない彼にしては珍しく、ただ譜面だけを食い入るように見つめた真剣な表情は鬼気迫るものがあり、近くで見ていたマルセルが再び息を呑んでいた。
情熱的に激しくかき鳴らされる旋律、戦場には場違いなほど澄んだ音色が響き渡るにつれ、竪琴が淡く光を放った。
何かの魔曲を演奏し始めたのだろうと考えたルヴァは、リュミエールに判断を任せ目前の戦闘へ意識を切り替える。
そんなルヴァの背を守るように、オスカーは背中合わせで身構える。オリヴィエはクラヴィスの前で剣を構えた。
汚泥の中の目玉が、揃ってルヴァとオスカーの方を向いた。
狙いを定めた様子で大きく広がり、覆い被さろうとしてくる。
作品名:冒険の書をあなたに2 作家名:しょうきち



