冒険の書をあなたに2
メラゾーマ単体で言えば、世界中でトップクラスの火力を誇る腕前のマーニャですら倒し切れない手強さに、一同の表情が僅かに曇る。
注視していたピサロが厚手の外套を軽く払い、小さく嘆息した。
「呪文はどれも殆ど効いている。と同時に、さほど効いていないとも言えるな……」
面倒臭いと思っているのが丸わかりの声音でそう言うと、手指の関節を親指で押さえ一本ずつ鳴らした。美しい外見には些かそぐわない行動に無言の苛立ちを感じ取ったソロが、少々意地の悪い笑みを浮かべた。
「まあそれでもさ、あれ単体だからまだいい。お前のときは腹から顔出てきたしな」
茶化す口ぶりに、不快を露わにしたピサロが睨め付けた。
無言の抗議に、ソロが苦笑しながら宥め始める。
「怒るなってー」
「…………」
「悪かったってー」
「………………」
怒ったのかとよくよく見れば真一文字に閉じた口の下、顎に僅かな皺が寄っている────小さな子が泣くのを堪えているような仕草に、彼なりに後悔はしているのかもしれない、と思ったソロがとんとピサロの背を叩く。
「……忘れることはできないけど、もう怒ってないから。そんな顔するなよ」
「別に、普通の顔だ」
「ん、それならそれでいいよ」
人里から隔離された場所ではあったが親しい者たちに囲まれて育った自分と違い、この魔族の王には家族と呼ぶべき存在を聞いたことがない。唯一心を寄せていた恋人ロザリーを失った深い慟哭はいかばかりだったかと、ソロは慮る。
誰もが、己の人生を賭けて戦っている────その結果がどうあれ、どちらかだけが正しいと言うものでもないのだろうと、今のソロは考えている。
汚泥の巨人がのっそりと緩慢な動きで、見えぬ穴から抜け出してきていた。
一行の攻撃は全てきちんと当たっておりダメージもそれなりに与えられている筈だが、未だに倒れるだけのダメージには至らないまま、刻々と時が流れた。
輪郭だけが人の姿を模した、汚泥の塊。
内臓があるわけでもなく、イゴーの姿の方が余程人間らしさを保っていた程度の出来である。
後付けで出来てきた眼球が妙に素早い動きでキョロキョロと不規則に動き回り、視点が定まらぬまま首を後ろに倒し始めた。
大きな口から濁った咆哮と共に吹雪が吐き出されてくる。
襲いかかってくるブリザードに、再び酷い凍傷に見舞われた仲間が続出していく。
即座にソロがベホマズンを唱えて体力の回復を図り、開いた口が閉じ切る前にピサロが高く跳躍し、魔界の剣を喉奥に刺突させた。
痛みを感じている様子もなく手応えすら感じられない中、ピサロは柄をしっかりと握り込んだまま、さらに深く食い込ませた。
歯のようなものが剣を食み、ギリギリと歯の擦れる音が鳴る。
「……喰らうか、いいだろう。折れるものなら、折ってみろ!」
挑発したピサロの瞳がぎらりと赤く光り、闇色のオーラが身を包む。
その深い紫の輝きは剣を伝い、魔力を帯びた剣身が強く輝き出した。
跳躍の勢いが失われ始めたピサロは重力に抗い、両足を巨人の顎に蹴り込ませて刺突の力を一切緩めない。巨人はそんなピサロを振り落とそうとしているのか、イヤイヤと頭を左右に振り乱しながら暴れている。ルヴァは剣を喰むのを止めればピサロが離れる可能性もあると見ていたが、他の者たちの多くは否定的な見方をしていた────手にした剣が口を上下に分けるだけだろうと。
意地でも剣を手放さないピサロに業を煮やし、巨人は片手でピサロの体を掴んだ。そのまま遠くへ放り出されるかと思った矢先、真空波が猛威を振るう。
ピサロを中心に真空の刃が乱れ飛び、体を掴んでいた汚泥の手を容赦なく切り刻む。
「オォォォォォオオオオ……!」
汚泥の巨人がとうとう悲鳴を上げ、仰け反ってピサロから距離を取る。
魔力を全身に纏わせたピサロが宙に留まると、切り刻まれた汚泥の手がバラバラと無秩序に落下し、地面を汚している。
自由になった魔界の剣は多くの者の予想通り、すぐさま水平に回されて汚泥の頭部を上下に切り離した。
外套に飛び散ってきた汚泥の欠片を手ではたき落としゆっくりと着地してきたピサロに、一同からわっと歓声が上がる。
「…………ふん」
歓喜の声に鼻白むピサロだったが、残る汚泥の胴体を顎でしゃくってみせる。
続けと言わんばかりの仕草が呼び水になったのか、今度はオスカーとオリヴィエが攻撃に入る。
それを視界に入れたまま、ルヴァはオロバスを起こす。
「オロバス、私を隠してください」
「あいよー」
オロバスは自らの頁をバラバラに広げ、周囲からルヴァの姿を覆い隠す。
「これでいいか?」
「ええ、助かります。私が呪文を放つまで、できるだけそのまま維持を」
いつもの人のいい笑顔ではなく、にやりという表現が当てはまる歪な笑みでそう告げると、ルヴァは杖を構えて守護聖二人の行動を見守る。
(硬化が解かれるところを狙い撃てば、恐らく……)
聖地随一の頭脳は、それぞれの呪文の僅かなタイムラグを計算し始めている。
「攻撃が当たる瞬間に硬化している」との情報は駆け寄る守護聖二名も考慮しており、微量の神経毒を持つ誘惑の剣で先に切りつけようと、オリヴィエがオスカーにアイコンタクトを送って先へ行く。
ピサロに斬られた頭部の断面には骨らしきものはなく、当然血が出ることもなくゼリーのようになだらかだ。
あれでは口から酸を吐くことも当分出来ないだろう────そう考えたオリヴィエは躊躇いなく剣を回して切り掛かる。
ブヨブヨに見える汚泥に触れた瞬間、ガギンと金属質の音が鳴り、衝撃がそっくり手首に跳ね返ってくる。美しく手入れされたネイルが思い切り欠けたが、それに気づかないほどの集中力で剣を更に食い込ませた。
切れ込みの入った箇所に目を落とすと細かく硬い歯が出来ていて、それが剣を食みダメージを妨げている。
ざくりと斬り込んだ剣を離すのも一苦労するような状況だったが、片足のヒールで汚泥を踏みつけてどうにか攻撃を終え、オリヴィエはオスカーの動きを確認した。
オリヴィエの攻撃の直後、駆け込んでくるオスカーの表情は些か硬い。
大股で接近し、愛剣が勢いよく風を切る────オスカーの攻撃もまた、当たりはしたものの細かな歯に阻まれた。
「くっ……!」
微動だにしない剣を引き抜こうと、オスカーの端正な顔が歪む。手袋の下で浮かび上がる血管が、力の入りようを密やかに伝える────その矢先、苦しげだった表情から一転し、口の端が持ち上がる。
オスカーの剣はギチギチと不愉快な音を奏でていたが、大きく息を吸い込み刹那呼吸を止めたオスカーの全身に、彼のサクリアの色が漲っていく。
「────セイッ!」
辺りに響き渡る掛け声と共にサクリアを纏った剣は煌めきを増し、汚泥の鋸歯ごと切り上げる。斬撃に耐え切れず折れた歯、すぱりと切れた歯が入り交じり落ちる中を、愛剣の赤い軌跡が短く尾を引く。赤髪を炎さながらに逆立てたオスカーが、追撃を叩き込もうと剣を回す。
それを視界に捉えたルヴァが姿勢を低め、小声でオロバスに指示を出す。
「行きます。下がってください」
「りょーかーい」
作品名:冒険の書をあなたに2 作家名:しょうきち



