冒険の書をあなたに2
ビアンカの猫のように弧を描く淡青の瞳は、オスカーの瞳の色とよく似ていながらもより屈託のない明るさを伴っているような気がして、ランディは少し落ち着きを失い慌てて言葉を返した。
「は、はいっ。俺で良かったら喜んで」
「アンジェさーん、ルイーダの酒場で待ち合わせだからねー!」
ビアンカの声に反応してくるりと振り返ったアンジェリークがにっこりと笑い、大きく頷いて手を振り、その横でルヴァがぺこりと会釈する。
そこで何かを思いついた様子のポピーが両手を軽く打ち合わせ、ぱたぱたとアンジェリークのもとへ走った。
「アンジェ様、私もご一緒します。中庭からのほうがルーラしやすいんで」
そうしてアンジェリークたち四人は中庭へと向かった。
中庭にたどり着いたアンジェリークはグランバニア周辺の深い森を懐かしげに見回し、その翠の目を細めた。
吹き荒ぶ風の中自由にめくれあがる服の裾を片手で押さえつつ、いまだ暗雲が低く垂れこめる鉛色の空をじっと見つめて何かを考え込んでいる。
こちらの世界に来たときよりは多少明るくなってきたようにも思えるが、今にも雷を落としそうな雲が上空に留まり、まるでこの世界の不安定な現状を伝えているかのようだった。
空へと視線を縫い止めたままで、アンジェリークはポピーに話しかける。
「ポピーちゃん」
「はい」
女王然としたアンジェリークの姿はポピーにはまだ余り見慣れたものではなかったが、こうして凛とした横顔を見ているとやはり宇宙を統べている女王陛下なのだと思わざるを得ない────故に、呼びかけられれば自然とこちらの背筋も伸びてしまう。鈴の音のような優しい声色に含まれる威厳が人々の心の壁を取り払い、その胸に自ずと敬意の火を灯すのだ。ただ一言、名を呼ばれただけであっても。
どこか緊張した様子のポピーを意に介さず、アンジェリークは言葉を続ける。
「ロザリアに、全員ルイーダさんのところに集まるように伝えておいてくれる?」
「はい、分かりました。伝えておきます」
「ありがとう、後はお願いね」
キュッと唇を引き結び頷いたポピーがオスカーへと視線を流す。
「俺のほうは気にするな。いつでも呪文を唱えてもらって構わない」
オスカーはそう言って口角を上げ、すぐにポピーの詠唱の声が響いて、二人は北の教会に向け旅立っていった。
アンジェリークはそれから、顎に右の指先を当て早口でぼそぼそと何か呟いている。
ルヴァは暫くそれを静かに眺めていたが、やがて痺れを切らしたのか彼女の長い金の髪にそろりと手を伸ばした。
初めは勝手気ままに舞う波打つ毛先を手に取り、そうっと唇を押し当てた。
本来であれば女王陛下に対して不敬極まりない仕草────だが恋人への愛おしさと切なさがこもったこの行動を、いまこの場で咎める者は誰もいない。
以前夫婦として旅をしたこの世界で、今度は聖地の延長のような距離感を保たねばならない辛さが、普段守護聖として生きる彼にしては割と積極的な行動に出る動機となっていた。
城の兵士たちはまだ大会議室に集まっているようで、辺りに人影はなくひっそりとしている。
ふと髪先の違和感に気付いたアンジェリークが不意にルヴァの姿を探し、振り返ったところで正面から視線がぶつかった。
「……考えは纏まりましたか、アンジェ」
穏やかな口調とは裏腹に青灰色の瞳が熱くアンジェリークを捉え続け、彼女の雑念は途切れざるを得なかった。
小さく頷いて言葉を返そうとした刹那、髪先に触れていたルヴァの手が彼女の頬を滑り、耳のふちをなぞってそのまま顔が近づく。
唇が重なってすぐに彼の舌が入り込み、アンジェリークの舌をゆっくりと絡め取る。無人ではあったが公然と行われた深い口づけに、思わずアンジェリークの息が乱れた。ほんの僅かな息継ぎの合間にルヴァの胸元を軽く叩くが、彼は更にアンジェリークの細い体を引き寄せて離そうとはしなかった。
時に換算して二十秒ほどの間、ぴったりと二枚貝のように熱く合わせられていた唇が、小さな音を立てて離れていく。
アンジェリークはまん丸に見開いた翠の目を潤ませて、ルヴァの顔を見上げる。
「び……っくりしたぁ……」
彼の視線は口づけの余韻に浸るかのようにアンジェリークの赤みの増した唇へと注がれ、微かに口角を上げて話し出す。
「この先……いつ、このような時間が訪れるか分かりませんので。急にすみません……」
トーンを抑えた声は掠れていて、ありありと寂しさが宿ってみえた。そのままルヴァはアンジェリークの髪に指を差し入れて、優しく撫でる。
「いいの、わたしもルヴァ成分が足りなかったし……嬉しい」
最後を蚊の鳴くような声で告げてはにかむアンジェリークの片手は、早鐘のような鼓動を落ち着かせようとそっと胸に置かれている。そんな彼女を前にして困り顔で薄い笑みを浮かべたルヴァの視線の行き先が、アンジェリークの瞳と唇の間をちらちらと往復して名残惜しさを雄弁に物語りながらも、彼は再び守護聖としての立場に舞い戻り女王アンジェリークへと問いかける。
「さっきは何を考えていらしたんですか?」
アンジェリークは厳粛に曇ってしまう顔を俯かせ、額をルヴァの胸に預けて張りのない声を出す。
「前に来たときとの違いがね、気になっちゃって……いまはあんまりにも」
「闇と炎と鋼のサクリアの増大と、光と水のサクリアの著しい低下……ですね」
「……ええ」
海の向こうから微かに聞こえてくる遠雷に、二人は音のするほうへと耳を澄ませた。
アンジェリークがルヴァから数歩ほど離れたところで祝福の杖を握り締め、静かに目を伏せた。
今度は何を始めるのかとルヴァが黙って見守るうち、彼女の薬指に填められた祈りの指輪が輝き出し、懐かしい歌声が辺りに響いた。
嗚呼──眩き夜明けの空輝けり、色は金色(こんじき)の地平の果て目指して
嗚呼──廻りゆく月の船。神の鳥、永久(とこしえ)を抱きあまつみそらを舞う────
指輪から放たれた強い光はやがて収束を始め、大鷹ほどの大きさの鳥の姿に変わった。
神々しい光を纏った神鳥は、二人の上空を大きく旋回して悠然と飛び去って行く。
その雄々しき姿に眺め入りながら、ルヴァは静かに問う。
「……神鳥を……?」
誰のために、という言葉は必要なかった。アンジェリークがすぐに理解を示して頷いたからだ。
「少しは皆さんの力になるかと思って……薬草だけじゃ、きっとすぐに底をついてしまうでしょうから」
神の息吹を天空へと送り出す、エルヘブンに伝わる伝承歌────それは生きとし生けるもの全てを癒す、大いなる慈愛そのものの具現だ。
きらきらと輝きながら遠ざかっていく神鳥を見送り、ルヴァはほうと感嘆の息を漏らした。
「しかし、以前見たのよりだいぶ大きいような気がするんですが……」
確か鳩くらいのサイズだったとルヴァは記憶している。アンジェリークはその言葉に頬を緩め、口元を綻ばせた。
「できるだけ沢山の人に届いて欲しいって思って、全部のサクリアを少しずつ乗せてみたわ」
ルヴァは驚きに目を瞠り、それから眩しそうに細めた。
「届きますよ、きっとね」
作品名:冒険の書をあなたに2 作家名:しょうきち