冒険の書をあなたに2
ようやく室内へ足を踏み入れた彼が初めに見たのは────想像を絶する地獄の光景だった。
彼女が着ていた服は原形を留めてはおらず、自分に瓜二つの男がぐったりと動かないアンジェリークを陶然とした表情で背後から執拗に穿っていた。
気を失っているらしいアンジェリークは、律動に晒されるまま揺れている。
そしてその寝台の周囲には、見覚えのある紙がバラバラに散っていた────それら全てがオロバスを形成していた頁なのだとようやく脳が認識し、二つの凄惨な現場に居合わせた彼は、ただただ信じ難い気持ちで茫然と立ち尽くす。
「…………離れなさい」
まるで見えざる手に掴まれたように強張っていた喉から、掠れた声が出た。
その声に男がちらとルヴァのほうを流し見たが、関心なさそうに再び行為に耽る。
あの目だ、とルヴァは思い出す。アンジェリークに化けていたジェリーマンの、硝子玉のような目と同じだと。
ルヴァはこのとき生まれて初めて、ありとあらゆる手段でこの男を殺してやりたい、という憎悪に囚われかけた。そんな感情を鎮めるために唇を噛み締めて、冷静になれと己に言い聞かせた彼は懐からラーの鏡を取り出して警告する。
「今すぐ去りなさい。あなたが気安く触れていい方ではない!」
鏡に映し出された途端に男の姿がどろりと流れ、支えを失ったアンジェリークが力なく崩れ落ちた。
すぐに理力の杖を構え、じっとジェリーマンを睨み据えながら早口でバイキルトを唱えた。
「────獅子の力、玉響に宿らん」
怒りを滾らせたルヴァの脳内には、最早温情と言うものは存在していなかった。
一歩ずつ近づいてもジェリーマンはアンジェリークの側から離れようとはせず、それが彼の中の怒りを更に増幅させている。
白刃が飛ぶ側ではなく杖の先でジェリーマンを問答無用に突き飛ばし、まずはアンジェリークから引き離した。
ルヴァは寝台とジェリーマンの間に立ちはだかり、気絶しているアンジェリークをかばいながら次の呪文メラゾーマを唱えた。
「焔(ほむら)よ、ここに」
ルヴァの周囲に次々と火柱が噴き上がり、それらは螺旋を描いて頭上に集まり巨大な火球を作り出す。
「行きなさい!」
吊り上がったまなじりは研ぎ澄ました剣の如く敵へと突き刺さる。火球はすぐにジェリーマンを襲い、派手に衝突した。
火の粉がちらちらと舞い散る中、飛び掛かってきたジェリーマンを杖で受け止め、絡みついたジェリーマンごと杖を振り下ろして白刃に巻き込ませた。
真っ二つに分かれたそれぞれの塊。それにつかつかと歩み寄ったルヴァは容赦なく杖を突き立てる。今度こそ決して逃がしてはならないと決意を込めた攻撃により、ジェリーマンは砂と化した。
汚いものを見るような一瞥をくれて、完全に勝利したことを確認した。
それから緩く息を吐き、ぎこちない動きで恐る恐るアンジェリークへと視線を移す。
白い肌はあちこちが擦り傷や強い摩擦で赤くなり、僅かだったがシーツに血が付着していた。近付いてそろりと確認すると、後ろにだけ裂傷が見受けられた。
傷自体はそれ程酷くなかったのが不幸中の幸いといえたが、ルヴァにとっては守り切れなかったこと自体が悔しくて堪らず、小刻みに震えたままの拳を強く握り締める。
(こうしている場合じゃない)
手の甲で目尻に浮かんだ涙を拭い、再び意識を集中させる。
「癒しの柳絮(りゅうじょ)よ、ここへ────」
治癒の力を持つ呪文ベホマの小さな光の粒が、傷を隠すかの如く優しく降り注ぐ。アンジェリークの青白かった頬に赤みが差して、血の痕跡がなければ静かに眠っているだけに見える。
濡らしたハンカチで体を拭いて上着で包み、彼女が目覚める前にそうっと抱き締めてから長椅子へと運んだ。
そしてすっかりばらけてしまったオロバスの頁を拾い集め、大切そうに胸に抱きかかえた。
騒動を聞きつけたのか慌てた様子で戻ってきたロザリアが、破壊されている扉の前で一度立ち止まり、身を強張らせた。
だがすぐにきりりと表情を引き締めて室内の様子を見回し、横たわるアンジェリークを見て眉をひそめた。
「陛下!? ルヴァ、これはどういう────」
ことですのと続ける前に、ルヴァが人差し指を唇に当てて静かにするよう促して、小声で話し出す。
「……魔物に襲われ、今傷の手当てをしたところです。詳細は後ほどお話しますが、その前に……」
ちらとアンジェリークを振り返り、切なげに目を細めた。
「洗浄をしなければなりません。あの……あなたにお願いしても?」
例え同性であっても触れさせたがらないほど惚れ込んでいる彼なのに────と、ロザリアは困惑した様子で尋ねた。
「そ、れは構いませんけれど……ルヴァがなさったら? そういう間柄なんですから、あの子だってそのほうが」
その言葉へ、彼は弱々しく首を振る。
「アンジェを襲ったのは、私に化けていた魔物でした。目覚めたらきっと怖がらせてしまうでしょう……」
「そんな……」
ロザリアは意気消沈するルヴァにかける言葉をすっかり失い、ただ瞳を揺らがせて見つめる。
「……あー、そういうわけなので私は自室へ戻ります。今は陛下に付き添っていてください。よろしくお願いしますね」
にこりと口角を上げてみせたルヴァだったが、平静を保てずに泣き笑いの顔になっていた。
ロザリアはその痛ましい笑みに胸を塞がれる思いで、静かに出て行くルヴァを見送った。
そうしてルヴァはひとり部屋に戻り、ラーの鏡を元の位置に戻し置いてから淡々とオロバスの頁を組み直し始める。
気絶しているのか息絶えたのかは分からなかったが、当然のように頼み事をしていなければ、彼は今もまだ賑やかにお喋りしていたに違いない。とても可哀想なことをしてしまったけれど、こちらの世界ならばもしかしたら元に戻してあげられるかも知れない────と、期待を込めながら丁寧に頁を揃えた。
作業に没頭してから暫くして、扉の向こうからロザリアの声が聞こえてきた。
「お休み中のところ失礼します。ルヴァ、いらっしゃるかしら」
オロバスの頁が飛ばされないように重しをしてから扉を開けると、ロザリアの後ろに涙ぐんだアンジェリークが立っていた。
「ア……陛下!?」
驚きに目を瞠るルヴァの声を聞いた途端に、ボロボロと大粒の涙を零し泣き出したアンジェリークが勢い良く腕の中に飛び込んできて、慌てて抱き留める。
ふんわりと鼻先を漂う甘い香り────彼が一途に愛し続けているただ一人の香りに、また偽物ではないかと疑っていた心が緩み、抱き締める腕に力を込めた。
抱き締め合っている二人の様子をロザリアは半ば呆れ顔で眺め、やれやれと肩を竦める。
「ごめんなさいね、この子ったら目を覚ました途端あなたに会いに行くって聞かなくて。申し訳ないんですけど、処置はそちらにお任せするわ」
「わ、分かりました」
ぐりぐりと胸に額を押し付けているアンジェリークの金の髪を撫でながら、ロザリアの言葉に頷いた。
「全くもう、あんたって子は! わがままばかり言って人に迷惑かけるんじゃないのよ!」
女王候補としてライバルだった頃を彷彿とさせる物言いで、ロザリアはアンジェリークの背をぺしんと叩く。
作品名:冒険の書をあなたに2 作家名:しょうきち