冒険の書をあなたに2
完全に色ボケしている自覚はあるものの、今日一日だけでも聖地で過ごす数年分に匹敵するような、濃度の高い感情の起伏があった。喜びの他に悲しみと悔しさ、そして恐怖。それら全てが重なり、とにかく彼女を抱いて安心を得たくなったのだろう、とルヴァは分析する。
それに加えて快楽の果てまで追い詰めた際の、逃げ場所を失い悲鳴にも似た声とともに震える彼女の姿は、何度でも見たいと思うほどに魅力的なのだ。ついでに言ってしまえば、こちらの動きを止めようとした結果柔らかい太ももに挟まれるのも心地いい。頭を押しのけたいのか押し付けたいのか、身悶えながらうっかり髪を掴んでくるところも可愛い────そんなことを頭の中で考えているうち、つい今しがたの反省があっさりと忘却の彼方に消え去って、欲望が再び頭をもたげてくる。
未だ不貞腐れてシーツに包まった彼女を、シーツごとぎゅうと抱きしめる。
「……後でまた違うのを着てくれますか」
実のところ黒の下着がとても気になっていたルヴァだったが、それを聞いたアンジェリークの顔がみるみる青ざめていく。
「今日はもう絶対に着ません……!」
何が起爆剤になるか分かったもんじゃない────とアンジェリークが心の中で暫くぼやき続けたことを、このときのルヴァは知る由もなかった。
グランバニアの深い森が朝日を浴びて朱鷺色に輝き出す。
どこかから犬の遠吠えのような獣の鳴き声が聞こえ、ルヴァはうつらうつらした意識から目覚めた。
隣で寝息も立てずに眠る恋人を起こさぬようにそろりと寝台を降りれば、昨夜は暖かかった室内は一転して肌寒い。
美しい装飾の施された水差しからグラスに注いだ水をあおる。きんと冷えた水が喉を下り、未だだるさの残る体もはっきりと目覚めていく。
グラスに二杯目を注ぎ入れ、それを片手に窓辺へ近づいた。
木立から漏れ出す息遣いが霧となり、一斉に高みを目指していくのが見えた。
今度はキューンと高い鳴き声がする。この辺りの岩山に生息しているチゾット鹿だろうか────ふとそんなことを考えながら、彼は今日一日の流れを頭の中で整理しつつも更に明るさを増していく景色に眺め入った。
そうして全員が集合場所のルイーダの酒場へと集まっていたところへ、ルヴァとアンジェリークが最後に合流した。
顔つきがややくたびれた様子のアンジェリークだったが、笑顔を振りまいている。
「皆さんおはようございます」
アンジェリークのほんの少し掠れの目立つ声を聞き、ロザリアが綺麗に口角を上げたままルヴァを睨み付けていた。
こうなってしまうから部屋を分けたかったのに、と彼女の補佐官は言いたいのだろう────きつい睨みを受けてルヴァはそう分析するも、かと言って譲る気は微塵もない。
そんな無言の戦いを視界の隅でとらえたビアンカが、恐らくその原因となったであろうものを渡してしまったために、どこかバツの悪そうな顔をしていた。
天空の装備に身を包んだティミーがゆったりと立ち上がり、テーブルの上に地図を広げた。
「今からラインハットに向かいます。今ここで、ラインハットはここ」
アンジェリークとルヴァ以外の守護聖たちとロザリアが、指で示された場所を確認した。
「次に妖精の城へ向かうんですけど……この辺り」
ティミーの指は地図の上を大きく移動し、妖精の城があるという場所をとんと押さえた。その余りの移動距離に驚いたロザリアが思わず口を開く。
「それも呪文で?」
猫のようなややつり上がった青紫の瞳と視線をかち合わせ、ティミーはくすりと笑う。
「はい、一瞬です」
そこでふと何かに気づいた様子のビアンカが、顎に指先を宛がい話し出す。
「……そういえば、ルヴァさんは最初ルーラで具合悪くなってたけど、聖地から来るときは皆さん大丈夫だったの?」
守護聖たちがざわつき小声で話し込む中、ジュリアスが答えを返した。
「いや、特に具合を悪くした者はいなかったと記憶しているが……」
ジュリアスの言葉にほっと胸を撫でおろし、ビアンカは頬を緩めた。
「そう、それならいいわね。もし体調悪くしたら遠慮なく言ってね」
「承知した。細やかな気遣い恩に着る」
穏やかな声音で感恩の気持ちを表したジュリアスへ、ビアンカが嬉しそうに笑みを向けた。
それからすぐにポピーの移動呪文ルーラにより、一行はラインハット前に到着した。
割合としては針葉樹がやや多いグランバニア周辺とは違い、広葉樹が主体のラインハット周辺────色づいた葉ははらはらと地上に舞い落ち、風が気まぐれに彼方へと運んでいく。
以前の旅で訪れたのは夏頃だったことを懐かしく思い返し、アンジェリークは感嘆の声を上げた。
「わあ……もうすっかり秋ね! ヘンリーさんたちお元気かしら」
祝福の杖を両手で抱き締めながら嬉しそうにはしゃぐアンジェリークを見て、ティミーがくすりと笑みを零す。
「コリンズ見たらびっくりすると思いますよ。ぼくたちみたいにあいつもすっかりデカくなったから」
城下町の向こうにそびえ立つラインハット城を前に、ルヴァが小さく頷きながら口を開いた。
「こちらでは五年が経過したそうですからねー、あのゼフェルに似た幼子がどう育ったのか、興味がわきますよ」
ルヴァの感慨深げな声音に、真っ先に反応を示したのは名前の挙がったゼフェルだ。
「あ? オレに似てたって?」
くいと片眉を持ち上げたゼフェルがルヴァに問いかけたものの、ポピーの声にかき消された。
「えーっ、似てないよー! 絶対似てない! ゼフェル様のほうがずーっと優しいよ!」
余程毛嫌いしているのか猛然と言い返すポピーの姿に、事情を知るビアンカとティミーが苦笑いを浮かべていた。
城下町を歩き進むうちに、一行は奇妙な違和感を覚え始める。
話を切り出したのはオスカーだった。
「何か様子がおかしくないか……?」
オスカーの疑問はそのままルヴァへと向けられていた。視線を受けてルヴァも硬い表情でこくりと頷きを返す。
「ええ……以前来たときはもっと賑わっていたものですが」
幾ら見渡そうと人の気配というものが一切見当たらない現実に、全員の表情が徐々に強張り出す。
アンジェリークもまたどくどくと騒ぎ始めた胸をそっと押さえ、視線を散らして周囲の様子を窺う。
「……ルヴァ」
空いた片手でルヴァの服をきゅっと掴み、小さく呼びかけた。
「あの屋台って、前に立ち寄ったところよね。お鍋から湯気が出てるのに、誰もいないみたい……」
つい先程まで普通に生活していたような形跡がそこかしこから感じられるにも拘らず、そこから命あるものだけが忽然と姿を消しているのだ。
眉根を寄せたオスカーがランディに声をかけた。
「ランディ、準備しておけよ。……何が出るか分からんぞ」
そう言って腰に下げた愛剣を掴んでみせる。ランディにはその仕草でいつでも戦えるようにしておけという指示が正しく伝わった。
ルヴァは背筋にうすら寒いものを感じ、ごくりと唾を飲み込んでから一同に話しかける。
「お城へ行ってみましょう。もしかしたら城内に避難しているかも知れませんし」
一行は真っ直ぐ城を目指してみたが、跳ね橋と門は通常通りに解放されていた。
作品名:冒険の書をあなたに2 作家名:しょうきち