不幸少年と幸運E英霊の幸福になる方法4
そうして唯一の光を、この身の内に巣食う聖杯が奪った。養父・衛宮切嗣はこの壊れた聖杯に触れた後遺症のようなもので早世したと士郎は思っている。
――意地を張るのはそろそろやめにしないか?
アーチャーの声で、同じ口調で、けれど優しく言われ、決心の箍が緩みそうになる。
「……やめない。出て、くるなっ!」
小声で言って、士郎は洗濯物を持ち、母屋へ戻った。
夕食が終わり、団欒が終わり、来客が帰り、士郎はおぼつかない足取りで自室に向かう。
熱が上がってきているのがわかっていた。常に微熱は続いているのだが、夜になるにつれ、熱は高くなっていく。自室に入って障子戸を閉めると、崩れるように膝をついてしまう。
「っは……、はぁ……」
下半身はへたり込んだものの、畳に手をつき、上体はかろうじて上げている。が、やはり息苦しくて、胸元を押さえる。
――苦しいか?
「……っない! くる、っしく、ないっ」
――楽にしてやるぞ?
「い、いら、ないっ!」
畳の目に爪を立て、がりがりと引っかいて、畳に筋ができた。爪が捲れた痛みで正気を保ち、士郎はほっと息を吐く。
――強情だな……。
呆れたような声がして、じわり、と涙が滲む。
「……っぅ…………」
――ああ、泣くな! 泣くな、泣かないでくれ、士郎……。
アーチャーの声が何よりも士郎を苛む。
アーチャーの姿を真似る聖杯は、士郎が泣いてしまうと慌てた声を出す。まるで、本気で泣くなと言われている気がして、士郎は嫌になるのだ。そうして涙が止まれば聖杯は、またそそのかすような言葉を発する。
飴と鞭じゃないか、と士郎は頭の片隅で思いながら、ぼんやりと手をついた畳を見つめた。
畳に落ちた自身の影が次第に漆黒に染まり、じわじわと広がっていく。
「ぁ……、あ、」
慌てて黒い影をかき集めようとしたが、手に触れるのは畳の感触だけだ。
日に日に黒い影が大きくなっていることにはすぐに気づいた。最初は本当に自分の足の周りほどの影だったのだ。それが、三日経つ頃には、士郎の影よりも一回り大きくなっていた。
――どんどん広がっているな。楽しみだ。
うれしそうに聞こえる声に、これは違う、と士郎は心で唱える。
焦らせるようなことを言われるのは平気だった。ただ、その声がアーチャーと寸分変わらぬ音であることが、士郎には堪えた。
姿が見えればまだ違うと認識できる。アーチャーは聖杯が化けた偽物が象るような笑みなど士郎には見せない。だから、別物だと思える。だが、声だけが聞こえるというのは、判別をつけにくい。
ともすれば折れてしまいそうになる自身を必死で留めているというのに、不意に優しい言葉がアーチャーの声で聞こえると、気を許してしまいそうになる。
「ダメだ、ダ……、っ、ダメ……」
畳に立てた爪先に血が滲む。
「っ……」
――士郎、泣くな……。
聖杯の声がする。アーチャーと同じ声がする……。
揺れる心を押し止めようと、胸に手を当て、爪を立てる。
(聖杯を取り込むって言ったのは、俺なんだ……)
今になって後悔している。
こんなことになるとは思っていなかった。
士郎はただ、聖杯を取り込めば、養父のように身体が弱ることがあるかもしれないと漠然と考えていただけだった。それならばそれでいいと、どのみち家族のいない身だ、早世したとしても誰にも迷惑はかけないから簡単なことだと思っていた。
あの時、アーチャーは、どうなろうとも手を貸さないと言った。自分でなんとかしろ、と。
もっともな話だ。アーチャーは、考え直せと忠告をくれたのだ。それを、拒否したのは自分自身。あの時、自分が犠牲になればいいと、そんなヒーローみたいなことができるのならと、自己を犠牲にする自分に酔っていたのだと今になってわかる。
(アーチャーはわかっていたんだ……、俺が自己陶酔していることを……)
馬鹿なことをしたと、士郎は自分を嗤いたくなる。今になって助けてくれなどと、そんな都合のいいことを言えるわけがない。
(頼ることなんか、できない……)
足りない食費のことでは、アーチャーが手を貸してくれた。だが、家計の話とは違うのだ。聖杯を取り込むことは自身で決めたこと。初めから士郎が自分自身でなんとかしなければならない事柄なのだ。
(頼らない……)
張り詰めた緊張の糸がいつ切れてもおかしくないような状況で、常に精神を削がれるような聖杯の誘いに、士郎は一人で耐えるしかなかった。
◇◇◇
(体調が悪そうだ……)
庭で洗濯物を干す士郎を眺め、アーチャーは小さなため息を吐いた。
「くそっ……」
そんな自身に苛立って、すぐさま踵を返す。
あの日以来――、士郎が己を拒んでいると知った時から、アーチャーが士郎に近寄ることはなくなった。会話はなく、必要なことはアーチャーが離れた場所、もしくは閉めきられた部屋の外から声をかけて確認する、という奇妙さだ。
来客のある時は士郎も居間に集っているが、客の帰宅とともに士郎は自室に籠もる。週末も同様、今、春休みという学校のない日、この家に二人だけになると、士郎はアーチャーと顔を合わすことすらない。
アーチャーを避けている、というよりも、視界から排除しようとしている、というような感じだ。
「は……」
聖杯のおかげで魔力に問題はない。アーチャーが現界するための魔力は十二分に流れてきている。
(私は何をしているのだろうか……)
守護者として存在する己が、いったい何をしているのか、と居心地の悪さを感じている。今ここで、過去の己のことばかりが頭を占めている。
いったいどうした、と士郎に訊きたいというのに、アーチャーには会話をする機会すら与えてはもらえない。
(どうすれば……)
自分が何をしたのだろうか、と振り返ってみても、どれもこれもが原因のような気がして、これだと一つに絞ることが難しい。
確実に士郎を傷つけたとわかっているのは、あの風呂場での軽口。
あの行為の説明がつかず、自身の動揺を誤魔化し、尚且つ、それを士郎に勘付かれないようにと……、そんなくだらない意地で吐いた軽口に、思いのほか大きなしっぺ返しを食らっている。
(謝るべきか……)
今さらとは思いながらも、謝ることで以前のような距離に戻れるのなら、とアーチャーは期待せずにはいられない。
(女々しい……)
そうしてやはり、謝ることはしないでおこう、という結論に行きつき、アーチャーは家事で気を紛らわせる。
最近では、苛立ちもさながら、重苦しい気分がわだかまっている。
どうにかしたいと思いながら、どうにもできずにアーチャーは苦しさに喘ぐだけだった。
「このところ、シロウの様子がどうもおかしいと思うのですが、聖杯の方は大丈夫ですか?」
「ああ。聖杯の異変は感じられない」
アーチャーはそちらのことだけを答える。士郎本人のことに関しては、近づくこともできないため、なんとも返答しづらい。
「シロウは、少し熱っぽいのでは、と――」
「セイバー、君はなぜ、私のマスターを名で呼ぶ?」
「なんですか? 藪から棒に」
作品名:不幸少年と幸運E英霊の幸福になる方法4 作家名:さやけ