第三部9(109) マゼンタヴィクトリア
「ムッター!」
待ち合わせに指定したカフェにミーチャが現れた。
ミーチャに声をかけられたユリウスの碧の瞳が嬉しそうに輝く。
「ムッター今日はお勤めは?」
「今日はね、息子が来るからって半休貰った」
「そう。ごめんね。わざわざ」
「ううん。こっちこそ。ロンドンまで足を運んでもらった上に何度もこちらへご足労して貰ってごめんね」
「それでね…」
早速ミーチャが本題に入る。
「え?!」
ミーチャがユリウスに見せた、銀行の預金通帳の金額に、ユリウスが大きな碧の瞳を一層大きく見開き、絶句した。
「オークション会社の人から、前回の落札金額は聞いていたけれど…今回は競合してかなり競ったらしく落札価格がつり上がったんだって。…こんな時代でもお金のある所にはあるものなんだね…」
二人が通帳を見つめて押し黙る。
「で、この代金どうしたらいい?」
「そうだね…」
ユリウスがその数字としばらく見つめ、バッグから手帳を取り出し何かを書きつけ、ページを破るとミーチャに示す。
「このように、分けてこれらの口座へ振り込んでもらえるかな」
それはユリウスが持っているスイスの銀行の口座とそれぞれの口座への入金額だった。
「…あの…社会が一転した革命を経験したからね。これから先何が起こってもおかしくないと思ったから…パリにいた時からスイスの銀行に複数の口座を持っていたんだ。…尤も今はスッカラカンで殆ど何も入っていないけど…」
そう言って肩を竦めて見せる。
「ムッター…。うん。分かったよ。そうする」
ミーチャが今一度自分の通帳に記入された金額と、その書きつけの合計額を照会する。
「あれ?…ムッター。少し余るよ。これどこにいれる?それとも…現金化して手許に置いとくの?」
ミーチャが計算した合計金額が各行への手数料を差し引いても若干通帳の額に満たない。
息子の質問にユリウスが笑顔で答える。
「ううん。それはあなたへのお駄賃。今回はお世話になったからね。…それでマリオンとお揃いのいい時計でも買いなさい。スイスにはいい時計が沢山あるから」
「ムッター…ダメだよ…」
「いいの。あなたがあの時来てくれたおかげで…ムッターは救われた。それから…ファーター…アレクセイにも話をしてくれたのでしょう?あなたはムッターとファーターの夫婦の恩人だよ」
そう言って柔らかに微笑んだ母の顔は、昔の―、父から愛情のありったけを注がれていた頃のような艶やかな輝きを放っていた。
「ムッター…幸せなんだね」
ミーチャの言葉にユリウスが小さく頷いた。
「よかった…。ムッターのそんなに幸せな笑顔を再び見ることが出来て。さて…用事は済んだし、僕はもう帰るよ」
「え?もう帰っちゃうの?泊まっていかれないの?」
「うん。ゴメンね。…その代わりクリスマスに、マリオンとヘレナと…家族でお邪魔してもいいかな?」
その申し出にユリウスの顔がパッと輝く。
「うん。楽しみにしてるよ」
「それからムッター」
「ん?」
「このお金とは別に、これからムッターに仕送りすることにするよ」
ミーチャの申し出にユリウスがびっくりしたように首を大きく横に振る。
「い、いいよ。ミーチャ。今は…ムッターもそれからファーターもちゃんと働いてるから、心配いらないよ」
「いいや。…まだまだムッターもファーターも若いから…僕もすっかり失念していた。迂闊だったよ。それにムッターは…多分このお金を自分の生活のためには使わないだろう?…ネッタだってまだ学費がかかるし、うちだって昔のような共産党幹部の身分ではないんだ。これから…そうだな、この口座へ毎月振り込むから。ね?」
ミーチャがユリウスから渡されたメモの口座の一つを指さした。
「…ありがとう。でも、あなただって家庭があるのだから、無理はしないでね」
「…するよ。だってムッターは、今の僕より10以上も若かった時から、無理に無理を重ねて僕を育ててくれたじゃないか。あんな少女のムッターが出来た事を…男の僕が出来ないんじゃ…恥ずかしいよ」
― このぐらいの無理、させてくれよ。
ミーチャの言葉に、ユリウスが感極まって息子の身体をギュッと抱きしめた。
「ありがとう…。ありがとう。…ムッターの可愛い小熊ちゃん…」
ミーチャの胸に顔を埋めて呟いた母親の声は―、涙で少し掠れていた。
作品名:第三部9(109) マゼンタヴィクトリア 作家名:orangelatte