第三部10(110) Messiah ~Prelude
「ファーターは?」
「今教会」
「教会?」
筋金入りのマルキストの父親と教会。
思わず訝し気な声で訊き返したミーチャに
「ふふ…。そんなに驚く事ないじゃない。あれでもあの人カトリックの音楽学校へ通ってたんだよ」
サモワールにかけたポットを取り、お茶を淹れ、シロップの用意をしながら可笑しそうにユリウスが答える。
「まぁそれは聞いてたけど…。一体どういう心境?」
「別に…今更信仰を復活させようとか、そういう訳ではないみたいだよ。…まぁ、心中どうなのかはムッターにも分からないけど」
ー 先にお茶にしようか。さあどうぞ。ロシア式はね、これらのシロップを舐めながら頂くんだよ。
ユリウスがお茶とお菓子とともに出した各種シロップをマリオンとヘレナに勧める。
「美味しい!」
そろそろとベリーのシロップを口に入れて紅茶を一口飲んだヘレナが笑顔で歓声をあげる。
「よかった。さあ、お菓子も食べてね」
ユリウスが孫の賞賛に顔を綻ばせる。
「このシロップ綺麗。それにいい香り…。薔薇の香り…かしら?」
マリオンがスプーンで掬ったピンク色のシロップに顔を近づけ芳香を堪能する。
「そう。これはね、薔薇のシロップ。うちの庭の薔薇で作ったの。よく分かったね」
「ベルギーは、薔薇の栽培育種が盛んなんだ。薔薇の咲き誇る古城も沢山あるし…今度ムッターを是非連れて行ってあげたいな」
「そうなんだ。それは楽しみだな」
「ええ。是非来てくださいね。お義母様」
「バブーシュカ、一緒にお城の薔薇見に行こうね」
すっかりユリウスに懐き、傍に座ったヘレナが祖母の膝に小さな手を乗せた。
「そうだね。そうしたらヘレナがバブーシュカを案内してくれる?」
「もちろん!バブーシュカの手を繋いで案内してあげるよ」
「それは楽しみだなぁ。何が何でもベルギーを訪れないと」
「ヘレナはすっかりおばあちゃん子になっちゃったね」
「うん。ヘレナバブーシュカ大好き!」
窓から冬日の射すリビングが温かい笑いに包まれる。
まるでペテルスブルクのアパートで家族肩を寄せ合って暮らしていた頃のような。
ラトビアを出てから久々に味わう家族の賑やかな団欒の幸せに浸っていたユリウスに、ミーチャが先ほどからリビングの隅に置かれていたバスケットの中身を取り出して母の膝にそっと乗せた。
それは、黒いムクムクの子犬だった。
「これは?」
「ムッターへのクリスマスプレゼントだよ。スキッパーキというベルギーの犬なんだ。身体も丈夫で賢く警戒心も強いから、小さくても優秀な番犬になるんだ。
この家も番犬ぐらい置いた方がいいと思うよ」
キュウキュウと小さく鳴きながら、その子犬は黒い鼻をヒクつかせてユリウスの匂いを嗅ぐと、安心したように彼女の膝で丸くなった。
小さな稚い生き物の無防備な柔らかさと温もりが何とも愛くるしい。
「可愛い…。ありがとう。ミーチャ」
ユリウスが膝の上の子犬の頭を細い指先で掻いてやる。
気持ち良さそうに子犬は尻尾を振りながら後足で立つと抱き上げたユリウスの口元をペロペロ舐めた。
「キャッ!くすぐったい」
「こいつムッターの事、慕ってるんだよ。コラ!顔を舐めたらダメだぞ!」
ミーチャがユリウスから大きな手で子犬を抱き上げた。
「知り合いの家で生まれた子を貰ったんだ。トイレの躾も済んでいるから、飼いやすいと思うよ」
そこへ、
「ただいま〜〜」
とアレクセイが戻って来た。
「ウ〜〜!ギャウギャウ!」
リビングに入って来たアレクセイを見るなり、ミーチャの手に抱かれたその子犬が鼻筋に皺を寄せ、小さな牙を向けて唸り声と共に吠えてかかる。
「うわ!何だ?このちっこい奴は?」
「お帰り。ファーター。ね?ムッター。この犬は優秀な番犬でしょう?…コラ!吠えちゃダメだ。この人はね、一応ここの主なんだから」
ミーチャが少し人の悪い笑みを浮かべて手の中の子犬を宥めながら、母親に片目をつぶって見せた。