不幸少年と幸運E英霊の幸福になる方法7
そうすれば、アーチャーはまた自分を見てくれると、いつのまにか士郎はそんなふうに考えていた。
「こんなんじゃ……」
普通ではない。もし学校でケガをした時に衆目の中でこんなふうに傷が治ってしまったら、自分はきっと奇異の目で見られることになる。
「普通じゃ……な、い……」
恐いと思った。
聖杯が恐ろしいモノだと知っていたというのに、また違う恐ろしさを知ってしまった。
震える呼気を吐きながら、膝を引き寄せた士郎は、どうにかして身体の震えを止めようとしていた。
夕食の支度をするアーチャーに並んで手伝いながら、士郎はいつ切り出そうかと迷う。
ちょうど居間には凛とセイバーがいる。相談するならば、今をもって他にない。
明日は誰も来ない予定であり、今のうちに凛にだけでも伝えておかなければ、と思うのだが、なかなかに口が重い。
そうこうするうちに、作っていた青菜のおひたしができ上がってしまった。
「おひたしのほかは、あと、何をすれ……ば……」
見上げたアーチャーは、士郎を振り向き、すぐに顔を鍋へと戻した。
(ああ、やっぱり……)
こちらを見てはくれないのだと、積み重ねてきた絶望感をまた重ねる。
「みそ汁の具を刻んでおいてくれ」
「……わかった」
アーチャーと並んで台所に立っていても、士郎の胸は、じくり、じくり、と疼く。顔を見て話をしなくても、傍らでともに何かをしているならいいと思うことにしているが、積み重なる現実は、次第に胸を重くして、気分は鬱々と沈んでしまう。
(また……、次があるし……)
今だけがチャンスではないと、士郎は自身に言い聞かせる。
本当ならば、この身体のことを先にアーチャーに話しておきたかった。マスターとサーヴァントという関係である以上、情報は共有するものであり、凛たちに話すにあたって、アーチャーも初耳だというのは、あまりにも礼を欠く気がしたからだ。
しかし、あの聖杯が象ったアーチャーに、素直に話せばいいと言われていたというのに、どうしても言えずにいて今に至る。
(俺のすべてをアーチャーが受け止めてくれるって言ってたけど……)
そんな感じは全くしない。
まだ、自分が素直ではないからか、と士郎は必死に言葉を紡ごうとしているのだが、こちらを見ることのない鈍色の瞳は、いつもどこか遠くを見ているようで、もう二度と自分を映してくれないのかもしれないと諦めかけている。
何度も大丈夫だと自分に言い聞かせた。
アーチャーは“私のものになってくれ”と言ったのだ。そして士郎は“なる”と答えたのだ。
だから、きっと大丈夫だと、士郎は、何度も、何度も、何度も、繰り返し念じ続けて……。
だが、アーチャーの瞳は士郎を映すことはなかった。
(もう……俺を見ては……くれない……)
野菜室から出してきた大根をまな板の上に置き、包丁を持った手が、だらり、と下りた。
とす。
握っていたはずの柄が、掌から滑り落ちた。
◇◇◇
とす。
その小さな音にアーチャーは目を向け、ゾッとした。士郎の足のすぐ側に包丁が突き立っている。
「マ、マスターっ! 何をしている!」
居間でお茶請けの煎餅を齧っていた凛とセイバーが驚いて台所を振り返る。
「どうしたの?」
「アーチャー? 珍しく大きな声で、」
「マスター! いくらぼんやりしていても、包丁を落とすなど、いった……い、」
凛たちには答えず、士郎の肩を掴んで振り向かせれば、士郎は真っ直ぐにアーチャーを見上げてくる。アーチャーはその先の言葉を飲むしかなかった。
「俺……やっぱり…………恥ずかしい……こと……し……」
「な……」
ぼたぼたと大きな粒になってこぼれ落ちていく雫に呆然とする。アーチャーには、何がどうなっているのかわからない。
手を滑らせたのか、包丁を落とし、危ないだろうと、つい声を荒げてしまえば、士郎は泣いている。まるで折檻したような状況に何をどう言えばと言葉を探すが、動揺してしまい、全く思いつかない。アーチャーは、士郎に泣かれるのが本当に堪える。頭を抱えて右往左往してしまいそうだ。その上に、
「ちょっと! アーチャー! なに泣かせてるのよ!」
凛が勢い込んで台所に乗り込んで来た。
「アーチャー、シロウに何をしたのです!」
武装する勢いのセイバーも有無を言わさずアーチャーが犯人だと決めつけている。
「いや、私は……」
アーチャーとて、訊きたいくらいだ、何が起こっているのかと。いや、なぜ、泣いているのかと。
「アーチャー、事と次第によっ――」
「凛、あとは頼む!」
理由はわからないが、呆然として涙を落とすばかりの士郎を抱え上げ、アーチャーは台所を出た。ここでは話もできない、との判断だ。
「な、何よ、ちょっと、どういう……、って、もう! あとで、説明しなさいよ!」
凛の叫ぶ声が聞こえたが、返事をする間もない。足早に士郎の部屋へ向かおうとしたアーチャーは急転回して、庭から土蔵へ向かった。
重い扉を閉め、誰も入れないように閂を施す。
腰を据えて話を訊かなければならない。
ここで茶々を入れられて、うやむやにしてはならないと、本能的に感じていた。床に下ろした士郎は座り込んだままアーチャーを見上げている。いまだ涙は止まらないままだ。
「マスター、な、何が、あった? っ、何を、泣く?」
動揺して荒くなりそうな声を抑え、アーチャーは極力静かに訊く。泣くような何があったのだと激昂しそうになるのを堪えるので精一杯なのだが、ここで怒鳴っては、と必死に自身を抑え込み、濡れた頬を拭って士郎の答えを待つ。
だが、こちらを見つめている士郎は、声もなく涙を落とすだけだ。自分が泣いていることに気づいているのかどうか、今の自分の状況が士郎にはよくわかっていないように見える。
「いったい、何があったというんだ? マスター、話してくれ」
ためらいながらその身体を抱き込めば、ますます嗚咽を詰まらせて士郎は泣くばかりだ。
「っ……、あ、ああ、わかった。少し、待つ。落ち着くまで待つ。だから、泣きやんでくれ……、こういうのは、苦手だと、言っただろう……」
士郎の背をさすりながら、しゃくり上げる度に震える髪に口づけ、士郎が話せるようになるのを待つ。
どのくらいそうしていたか、ほんの二、三分のことだとは思うが、アーチャーには途轍もなく長く感じた。押し殺した嗚咽が響いていただけの土蔵に、ずず、と鼻を啜る音が混じりはじめた。
少し、マシになっただろうか、とアーチャーは抱き込んだ腕を緩める。
「また私が恥ずかしいと思っていると言いたいのか? もうそんなことは思っていないと言っただろう?」
落ち着いたのか、顔を上げて士郎はアーチャーを見つめてくる。濡れた琥珀色の瞳があまりにも容赦がないとアーチャーはため息をつきたくなった。
「マスター……」
そっと頬を拭えば、士郎は、ぽつり、ぽつり、とこぼしはじめる。
「なんで……見て……くれな、……っだろう……て……」
「え……?」
アーチャーには、その言葉の意味がわからない。
「見る?」
「アー……チャーは、……俺を……見て、くれな……」
「あ」
臍を噛んだ。
作品名:不幸少年と幸運E英霊の幸福になる方法7 作家名:さやけ