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陽は国境へと傾き…

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 陽は、国境へと傾きかけていた。窓から西日が射し込んで、病室の白い壁を明るく照らしている。ルカーチ・ユリアはベッドから降りると、いつものように廊下に通じるドアを明け放した。
 日々の検診に回ってくる看護婦の他には、彼女を訪ねる者もなく、病室はいつでも静かだったが、西日の射す頃になると、その静寂の中に現実が溶け出していくような気がする。壁からの照り返しで部屋全体がオレンジ色に染まり、物の色がよく分からなくなるせいか、時間が止まったような奇妙な感覚に捕らわれる。すると、自分がまだこの世にいるのか、気づかぬうちに彼我の世界に入ってしまったのか、判断がつかなくなってしまうのだ。もっとも、今さら死を恐れる気持ちはなかった。もし自分がすでに彼我の世界にいるのなら、それはそれで構わないと思う。ただ、自分がどちら側にいるのかは確かめたい。それで彼女はいつもドアを開けてみるのだった。
 そこには今日も見慣れた薄暗い廊下があり、リノリウムの床の薄汚れた緑色は、どう見ても現実の世界のものだった。廊下の奥の方からは、別の入院患者が聴いているらしいラジオの音声もかすかに聞こえてくる。まだ、こちら側にいる。ユリアは特別な感慨もなくそれを確認すると、ドアを開いたまま室内に戻り、いつもベッドわきに置いてある簡易のパイプ椅子を窓ぎわに移動させた。そして、西日が直接目に入らないよう窓枠の影になる位置を選んで、そこに腰をおろした。
 窓からは、遠くショプロンの旧市街地が見えた。中世の街並みを囲む高い城壁と、その中にそびえる火の見の塔や教会の鐘楼が、夕日を受けて明るく輝いている。そして、そのさらに向こう側、ここからは見えないが、あの太陽が沈んでいくあたりに、国境が横たわっているはずだ。30年前、彼女が越えて行こうと企てた西側との国境が…

 あの時の自分の選択が正しかったのかどうか、ユリアには未だに分からない。確かに計画は失敗に終わった。けれど今こうしている自分があるのは、あの選択の結果だというのは事実だった。それに、正しかったにせよ間違っていたにせよ、あの時の自分には別の道を選ぶことが考えられなかった以上、仕方がなかったとも思う。ただ…
 ユリアは小さくため息をついた。
 あの選択は、ひとりの人を傷つけた。周囲の誰をも信用せず、無表情の鎧の中に閉じこもっていた彼女の心を、ただひとり思いやってくれた人。他人との関わりを恐れ、警戒するばかりだった彼女に、暖かさを教えてくれた人。その人を裏切り傷つけたことだけが、今も胸につかえていた。
 窓の外を眺めながら、ユリアは今日も考える。
 あの人は今、どうしているのだろうか…と。
作品名:陽は国境へと傾き… 作家名:Angie