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陽は国境へと傾き…

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 その人は最初、チェキストとしてユリアの前に現れた。彼女が忌み嫌う国の、恐るべき機関の一員として。

 当時ユリアはブダペスト経済大学のプレチュニク教授の秘書をしていた。教授はハンガリー政府の経済顧問も兼任していたのだが、その立場を利用して密かにソ連のために働いていた。そのため彼の許には以前から、定期的にKGBの連絡員が訪ねてきていた。表向きの肩書はソ連大使館職員になっていたが、その中身はチェキスト(=KGB)だということを、ユリアはちゃんと知っていた。なぜなら、彼女自身も別のチェキストから報酬を受けて、ある「仕事」をしていたからだ。
 センテンドレに住む母・ラウラが深刻な心臓病で入院しなければならないと分かった時、ユリアは金銭の問題に直面した。社会主義の恩恵で、医師の診察や入院費そのものは無料だったが、薬代は実費負担しなければならないし、入院中の患者の身の回りの世話は家族がするのが基本だった。だが母の夫(ユリアにとっては継父)であるルカーチ・ベーラは、費用の面でも介護の面でもまるでアテにならなかったし、ブダペストで働くユリアが毎日センテンドレの病院に通って母の面倒を見るのも無理だった。医師に頼んで、代わりに世話をしてくれる人を紹介してもらうことはできたが、薬代にその謝礼を加算すると、とてもユリアひとりでは負担しきれない額になった。
 途方にくれていたある日、大学からの帰宅途中で、ユリアはボロディン参事官に声をかけられた。彼は教授を訪ねてくる連絡員の上司で、どうやって調べたものか、ユリアの抱えている事情をすべて承知していた。そして教授の監視役を務めるように打診してきたのだ。教授とKGBとのつながりは、そのとき初めて知らされた。ユリアはもちろん驚いたし、内心ではソ連という国を毛嫌いしてもいたが、報酬として提示された金額をみて、二つ返事で引き受けることにした。指示された仕事の内容は通常の秘書業務の中で苦もなくできることばかりだし、月に一度、深夜に指定された場所へ出かけて報告書を渡す以外は、特に外出する必要もない。それはユリアにとって、この上なく都合のいい副業のように思えた。
 けれど、初めての深夜の会合に出向いたユリアは、自分の考えが甘かったことを思い知らされた。報告書類を手渡すだけでは済まなかったのだ。彼女はそこで同衾を強いられ、手荒く扱われて屈辱を味わった。参事官の真の目的はこれだったのだと気がついた。だが、そうと分かった時にはもはや、手を引くことができなくなっていた。母はすでに入院し、支払うべき費用が発生していた。
 以来ユリアは屈辱に目をつぶり、月に一度ボロディン参事官に身を任せていた。そうすれば、とりあえず報酬だけは、約束通りに受け取ることができた。報酬自体は、どうやら組織の金から出ているようだった。要するに参事官は、組織の金で女を買うための名目として、教授の監視役という仕事を与えたに過ぎなかったのだ。
 ある時、参事官はあろうことか、報告書を受け取るのさえ忘れて帰ったことがある。屈辱の上にも屈辱を感じたユリアは、その翌月の「会合」に、あえて報告書を持たずに出かけた。
「お求めになっているのは、報告書ではないようですので」
 皮肉のつもりでそう言った途端、張り倒されて馬乗りで首を絞められた。殺される、と本気で思った。喉を締め付ける参事官の手には、それだけの力がこもっていた。
「人形でも、首を絞められれば苦しいか」
 必死にもがくユリアを見下ろしながら、参事官は言った。
「お前は余計なことを考えず、指示された通りにしていればいいのだ。人形の分際で小賢しい口をきくと、次はこの首をへし折るぞ。分かったか」
 意識を失う寸前にユリアはどうにか頷いて、ようやく手を離してもらった。人でなし、と思ったが、もちろん口には出さなかった。ただ、チェキストというのはこんな人種なのだと、胸に刻みつけた。

 そんな「副業」を続けて1年ほど経った頃、それまで教授のもとに通って来ていた連絡員が異動か何かでこの国を離れることになった。そして後任として新たな連絡員がやってきた。
 それが、彼だった。名をアレクサンドル・ザイコフと言った。
 教授から紹介されて形式的な挨拶をしたときの印象は、前任者に比べてずいぶん若い、ということだった。そのせいか、前任者やボロディンより人当たりが良さそうに見える。それでもチェキストは所詮チェキスト、この男も、穢い手段で他人を操る人でなしに違いない。どうせ自分の事も置物か、せいぜいゼンマイ仕掛けの人形ぐらいにしか見えていないのだろうと思った。実際、そのとき彼の方からは、挨拶の言葉は返ってこなかった。
 ユリアは生まれつき身体の色素が極端に薄い、いわゆるアルビノだった。幼少の頃にはその外見を理由に、養父にさんざん虐められた。それに対する防衛手段として彼女は無表情の殻に閉じこもり、何事にも反応らしい反応をせず、誰とも関わりを持とうとしなくなった。それが主な原因なのだろう。人は彼女を人形のように扱い、まともに話しかける者も、思いやる者もいなかった。そうした扱いにユリアは密かに傷つきもしたが、虐められるよりは無視される方がマシだと思い、黙ってやり過ごすことにしていた。今や彼女は半ば不感症になってしまい、挨拶を無視される程度のことは普通すぎて、非礼だとさえ感じなかった。
 だから、それから1時間後に教授との用件を済ませて退出してきたザイコフが、わざわざユリアに歩み寄って、挨拶を返さなかったことを詫びた時には、それはそれは驚いた。一瞬、なにを言われたのか分からず、まるで異星人でも見るような思いで彼の顔をまじまじと眺めてしまった。それからやっとザイコフが彼女に人並みの礼儀をつくしていることに気づいたが、その時のユリアは慣れない会話に戸惑い混乱するばかりで、内心、早く出て行ってくれないかと思っていたほどだ。後になって、なんだか自分の方が非礼を働いたようで気が引けたが、相手はチェキストなのだから、関わらないに越したことはないとも思った。これで向こうも自分を無視するようになるだろうと思った。

 だがザイコフは、その後も一貫してユリアに礼儀正しく振舞った。入ってくる時も引き上げる時も、そこにユリアの姿があれば、必ず彼女にも一言あいさつをした。茶を出しに行けば律儀に礼を言った。そしてそれを当たり前だと考えているようだった。ユリアにはそれが不思議でならなかった。彼女の持っていたチェキストのイメージに、彼はどうも当てはまらない。チェキストにも、こんな人がいるのかと思った。
 とはいえ、ザイコフの態度は決して社交辞令の域を出るものではなく、ユリアとはあくまで一定の距離を置いていて、特に親しくするつもりはなさそうだった。またユリアの方も、その頃にはもう、密かにあの計画の準備を進めていた。ザイコフの立場からすれば、それは絶対に許すことのできない計画のはずで、だから気づかれるようなことがあってはならないと、用心してはいたのだ。それでも、ザイコフに声をかけられるのは、やはり嬉しかった。用事を言いつける時の他は見向きもされず、機械のように扱われていたユリアに、彼だけは人並みの敬意を払ってくれる…
作品名:陽は国境へと傾き… 作家名:Angie