その先へ・・・1
それからその男が訪れることは無かった。
女にとってもただ一夜のお客。かりそめの相手に過ぎなかったのだが、なにか
妙に心に残る男であった。
まぁ、確かに、いい男だったから、ね。
女は今日も白粉をはたき、紅をさし、大きく胸の開いたドレスを着る。
女将は相変わらず次々と客をあてがう。
えり好みをすることも出来ず、客の相手をする。
若かろうが、年寄りだろうが、ただ相手をする。
だが、誰一人として、あの男の様に自分を抱いた男はいなかった。
あの男と寝たときの様に、あんな風に相手の事を思って演技をしたことは無か
った。
演技をしてはいても、本気だったのだ。
客を待っているときも、熱に浮かされて、出口を見失った鳶色の瞳を思い出し
てしまう。
「ねぇ、女将さん。あの男って……」
「あの男?誰だい?」
「……なんでもない」
女将が忘れてしまっているように、あの男も自分の事など忘れているだろう。
ここは、一時の行き場のない思いを吐き出す捌け口なのだから。
女は自慢の黄金色の髪を背中に垂らし、今宵の客の肩にしなだれかかった。
その時は突然訪れた。
「はやくお逃げ!憲兵だよ!!」
その夜は、珍しく客が泊まらずに帰ったので久しぶりに自分のベッドの上で眠
っていた。
酒場や他の部屋では、まだ多くの客が酒を酌み交わしたり、一夜の快楽に溺れ
ているような時間だった。
誰かが叫び、店は一瞬にして修羅場となった。
女は夜着にコートを慌てて羽織り、ショールを巻いて金髪を隠し、鏡台の引き
出しに隠してあった小さなポーチをポケットに押し込むみ、窓から身を躍らせ
た。
屋根の上を恐る恐る歩き、下へ降りられる場所を探した。
すると、後ろから酒場のコックがついてきた。顔なじみの存在にふっと肩の力
が抜けたが、今はとにかく逃げなければならない。コックが指差す方へと女は
ついていった。
少し進むと、ベランダの壁が少し高くなっている所が目に付いた。コックは下
に憲兵がいない事を確認し、先に下りた。そして支えてくれると言うので、用
心深く手と足を伸ばし降り立った。
「ねぇ、いったいどういう事?なんで憲兵が?」
「詳しいことはおれだってわかんねぇ。ただ、最近憲兵は娼館をめのかたき
みてぇにしてるらしいからよ。ほら、この間もマダム・コルフの店がやられ
たろ?」
「だって、あの店はボリェビキの巣窟だったんだろ?うちは違うだろうに」
「それが、あの店を根城にしていたボリシェビキのだんな達がちりじりにな
って、ここいらの娼館に出入りしているって噂がたってたんだよ」
「!じゃぁ、あの客たちの中にいたって事?」
「さぁ、おれなんかにゃわかんねぇがな。とにかく、あの店ももうだめだ。
マダムも連れて行かれた。なんとか逃げなきゃおれたちもやべぇ」
店の方からは女たちの泣き叫ぶ声や、男たちの怒号が聞こえる。
女はショールをしっかりと巻きなおし、コートの前を合わせた。
すると、憲兵は闇に紛れた二人を見とめたのか、こちらをめがけて走ってき
た。
「まずい!おれはあっちに逃げる。あんたはそっちに逃げろ!運が良ければ
どっちかは助かるぜ!」
コックは女と別れ走り出した。
「こっちだ!まだここにいるぞ!」
「一人も残さずひっ捕らえろ!」
憲兵の目がコックに向いた事を確認すると、女は反対の方向へ走り出した。
遠くに逃げなければ。憲兵なんかに捕まってたまるか!
雪に足をとられ思うように走れなかったが、必死で走った。
だいぶ店からは離れたつもりだったが、まだ憲兵がうろついている。闇に潜
んで周りを伺っていると、いきなり手をつかまれ建物の隙間へと引き込まれ
た。
「ちょっ!」
抵抗しても後ろから片手で口元を抑えられてしまい、もう片方の手で抱きこ
まれてしまっていて、声を上げる事もふりはらう事も出来ない。
「静かにしていろ!憲兵が来るぞ」
憲兵という言葉に女の動きが止まる。
しばらくその場で様子をうかがった後、男は女の腕をつかんだまま、走る
ぞ、と声をかけ走り出した。
いくつもの通りを抜けた。闇から闇へと抜けて、ようやく憲兵の捜索範
囲から逃れられたようだった。
「もう大丈夫だろう」
限界近くまで走った為息が上がり、呼吸が整うまで下を向いたまま
だった。
徐々に呼吸が整ってきたので、恐る恐る顔を上げ、窮地を救ってくれた
男の顔を見上げる。
背の高い細身の男。
あの亜麻色の髪の男が立っていた。