その先へ・・・2
(4)
ズボフスキーの家のドアを開けると、にこやかなガリーナの出迎えを受けた。
男たちの間で張りつめていた空気が、ふっと軽くなる。
「お帰りなさい、フョードル」
「ただいま。変わりないか」
夫とキスを交わしたガリーナはあたたかく夫とその盟友を迎える。
所在無げに立っているアレクセイにも、優しく声をかけた。
「いらっしゃい、アレクセイ。来てくれてよかったわ」
「ガリーナ、迷惑かけてすまない」
「いいえ、大丈夫よ。今日はゆっくりしていってね」
部屋に入るとすぐ彼の目はユリウスの姿を探した。
そんなに広くない部屋だ。視線を走らせると金色の光が視界に入るはず
なのだが、いない。
キッチンにも、ユリウスが使わせてもらっている部屋にも、姿が無い。
「ガリーナ、ユリウスは?」
「今、買い物に行ってもらっているのよ。もうそろそろ帰ると思うわ」
「買い物?あいつ、大丈夫なのか?」
ユリウスはロシアの街をほとんど出歩いたことが無い。
ぽつりぽつりと語った事によると、侯爵家に逗留しているとき、外出は
ほぼ許されておらず、たまに侯爵や侯爵の妹とオペラやバレエを気晴らしに観にいく程度だったという。
もちろん侯爵家の馬車での外出なので、街中を歩く事など一切無かったそうだ。
「窓から見える景色は見ていたよ。時々遠回りをしてくれて、ネヴァ河岸を
走ってくれたり。自分で歩きたかったけど、それは許されていなかったから」
「なぜだ?別にかまわんだろうに」
「よく分からないんだ。ぼくはあのお屋敷の中でしか自由はなかった。だから
たまの外出は嬉しかったんだ。でも……それもある時を境に一切なくなってしまったんだ」
「ある時?」
「……レオ、ユスーポフ侯を狙ったテロにぼくが巻き込まれた時」
「なに?」
「侯爵とぼくを間違えたらしく、狙いが外れて大事にはいたらなかったけど」
「お、おまえ怪我はっ?!大丈夫だったのかっ?」
「……」
青ざめたアレクセイの様子に、ユリウスは少し躊躇した様だったが、ゆっくりと右腕の袖をまくった。
白い肌にはおよそ不釣合いな、ピンク色の裂傷の痕。
アレクセイはすぐにユリウスの手を止め、袖をもとに戻してやった。
「……すまなかった」
ユリウスの告白を思い出していたアレクセイに、ガリーナがにこやかに微笑みかけた。
「気になるわよね。彼女がいないと」
「そっ、そんなんじゃ」
慌てるアレクセイを見て、ズボフスキーもおもしろそうに笑い出す。
「笑うな!ズボフスキー!」
ニヤニヤと笑いながらコートを脱ぐ夫の世話をしながら、ガリーナはユリウスの近況をアレクセイに話し出した。
「最近は一緒に買い物に行っているの。お肉やお魚、野菜やパンにミルク。
生活には必要なものでしょ。買い方も上手になったし、とっても助かってるわ」
「買い物が上手いのはいいな。いい奥方になるぜ、アレクセイ!」
「うるせぇ、知るかよ」
ぶっきらぼうに答えるアレクセイの横顔が少年の様で、ズボフスキー夫妻は
顔を見合わせ笑いあう。
程なくしてドアがノックされ、ズボフスキーが開けると、現れたのはイワン
だった。
「遅くなりました。なかなか食材がそろわなくって」
「ありがとう、イワン。助かったわ」
驚く様子も無く、イワンの帰りを待っていた様なズボフスキー夫妻にアレクセイは戸惑った。
「おい、なんでイワンが?」
「ああ、まぁ、あとで説明するさ」
「なんだよ、おれは蚊帳の外かよ」
するとイワンの後ろからユリウスがひょっこりと顔を出した。
「遅くなってごめんね、ガリーナ」
ユリウスが戻って来たとたん、この部屋に光が差し込んで来たような錯覚にとらわれる。
「いいのよ、大丈夫。イワン、ユリウス。ありがとう。ユリウス、アレクセイが来ているわよ」
ユリウスは輝く様に微笑んだ。急いで帰って来たのだろう、白い頬がほんのりとピンク色に染まっている。以前会った吹雪の夜とは違い、表情が明るい。
ガリーナにうちとけ、毎日が充実しているらしいとズボフスキーから聞いてはいたが、こんなにも明るくなっているとは思わなかった。
生き生きしているユリウスを見るのは、正直うれしい。
暗く、固まったままだったアレクセイの心がほぐれていく様な気がした。
「アレクセイ!来てくれたんだね!」
「ああ。しばらくこれなくてすまなかったな」
「ううん。あ、今ね、イワンと買い物に行ってきたんだよ。重いものを持ってくれたから助かったよ。イワン、本当にありがとう」
「いいえ、これくらい当然です!」
打ち解けた様子で話している二人にアレクセイの胸がざわつく。
ユスーポフ侯の事をユリウスが心配している時とは違った感覚。
どこかで……
「イワンはね、料理が得意なんだって。コックさんのアルバイトもしているんだって」
「へぇ、おまえそんな特技があるんだ。どこでやっているんだ?」
「あ、いえ……、あの……」
「なんだ、はっきり言えないのか?」
「アレクセイ、あの、そんな怖い顔で聞いたら、イワンだって……」
「ユ、ユリウス!!あの、し、娼館の厨房で…す」
小声で俯き加減でいうイワンの頭を アレクセイはがしがしとかきまわした。
「そうか、そうだな。確かに給金はいいな。悪かった」
「ふふっ、イワン、髪がぐちゃぐちゃだよ」
アレクセイによってぐちゃぐちゃにされた髪を ユリウスが優しく直してやる。
「あ、だっ大丈夫だよ、ユリウス」
真っ赤になっているイワンの様子を見て、アレクセイは先ほど抱いたざわめきの正体を知った。
イザークだ。
この二人のこの様子。あの当時のユリウスとイザークみたいだった。
何かとイザークの世話を焼いていたユリウス。
そんな姿を頬を紅潮させて見つめていたイザーク。
ユリウスが女の子だと知ってからは、無防備にイザーク接する様子にはらはらしたものだった。
二人でいつも一緒につるみ、笑いあっていた。
その笑顔はなんと眩しくうつっていたか。
「あの、アレクセイ?どうしたの?」
押し黙ったままのアレクセイをユリウスが見つめていた。
「あ、ああ。すまん。どうもだめだな。今日は色々と思い出しちまう」
「そう…なんだ」
寂しげに笑うユリウスに胸が痛んだ。
彼女には、思い出す過去が無いのだ。
気まずい空気が流れたのを見かねて、ズボフスキーが明るく声をかけた。
「さあ、つまみもきたし、みんなではじめようじゃないか。おれもアレクセイも腹ペコなんだ」
ズボフスキーの手には『スミルノフ』があった。