その先へ・・・2
「ミハイルのために」
ズボフスキーの一言で男たちはショットグラスを一気にあおった。
「美味いな、さすがに」
「ああ。普段飲んでいるやつとは大違いだ。あいつ、どこで手に入れたんだ?」
「こんな極上品は、おれたちの手にはもう届かないからな」
「……ミハイルと飲みたかったな」
アレクセイの隣にはミハイルの為のショットグラスが置かれている。
「ったく……。自分で用意した酒を飲まずに逝くやつがあるかよ」
ピン!と指でグラスをはじく。ウオッカがほんの少しテーブルに零れ落ちた。
アレクセイは自分のグラスにウォッカを注ぎ、一瞬にして空にすると、再びグラスに注ぎ足す。
「なんだ二人とも、飲めよ。あの野郎の弔いだぜ」
「ピッチが早いぞ、アレクセイ。酔いがまわる」
「ふん、いくら飲んでも酔えねえよ」
ズボフスキーとイワンのグラスにもなみなみと注ぐ。
「すみません、同志アレクセイ。ぼくはもう…」
「なんだ、お前飲めないのか?ロシアの男がそんなんでどうする」
「アレクセイ、イワンはね、これからまた仕事なんだって。その前に家に帰って妹さんの様子も見なくてはならないんだって。だから……」
思いもかけずイワンをかばうユリウスに、アレクセイが苛立つ。
ちきしょう。なんだってイワンをかばうんだ?
金髪の天使は、いつだって相棒をかばっておれにたてつきやがる。
昔も今も、ユリウスが自分ではない男をかばうのは面白くない。
そもそもここにイワンがいて、何故かユリウスと親しげなのだからなおさらだ。
アレクセイはまたウォッカをあおる。
「ユリウス、キッチンでポテトサラダを作るのを手伝ってくれない?」
「う、うん……」
アレクセイの様子を察したのだろう、ガリーナがユリウスに明るい声をかける。
「それからさっき買ってきてくれたハムとチーズも切って欲しいのだけど。練習の成果を期待してもいいかしら?」
「がっ、がんばるよ、先生」
女性陣がキッチンへ立つと、妻の機転に感謝しつつズボフスキーが切り出した。
「アレクセイ。イワンなんだがな、ミハイルが面倒をみていた孤児なんだ」
「ミハイルが?」
「ああ。さあ、イワン。自分で言えるか?」
「はい……」
イワンは自分とミハイルの関係をゆっくりと話し出した。
教師だった両親と3つ下の妹と共にこのペテルスブルグで過ごしていたこと。
母親が病で亡くなり、父親は濡れ衣を着せられシベリアに流刑。無実を晴らすことなく死んでしまったこと。
遠縁の農家に引き取られ、奴隷の様に扱われたこと。
イワンは淡々と語っていった。
「政治犯の子と蔑まれましたが、両親のいないぼくらはそこで我慢するしか無いと思っていました。満足に食事もとれなかった為、妹は栄養不良になってしまい満足に働けなくなりました。すぐに妹は親戚の家から放り出されました。働かない者に出す食事は無い。疫病神と罵られました。ぼくは妹を連れ、二人で遠縁の家を出ました。仕方ありません。遠縁の農家も不作の上に役人に搾取され、食うや食わずの生活でしたから」
当時を思い出したのか、イワンの目にも涙が浮かんでいる。
「農村部の状態はひどいな」
「ああ……。『世界で最も悲惨な生活を強いられているロシアの農民』っていう不名誉な称号は、伊達じゃないな」
イワンはショットグラスではなく、水が入ったコップを一気にあおった。
「ぼくらは、物乞いや、時には畑の野菜を盗んだりしながら、ようやくこの街にたどり着きました。父の教え子が、ある貴族の屋敷で働いていると聞いていたからです。父を慕い、家によく遊びに来ては色々な事を教えてくれた優しい人でした。頼る人もいないぼくらは、彼を頼ろう。もしだめならストリートチルドレンになるしかない。そう思っていました。その人は自分を頼って来てくれた事をとても喜んでくれました。ですが、住み込みで働いているのでぼくたちを引き取れないと。でもその代わりに、とても信頼のおける友人がいるからと引き合わせてくれたのが、同志ミハイルだったのです」
イワンは大きく息をはき目をつむった。
「初めて同志ミハイル……いえ、ミハイル兄さんに会った時、怪我を負っていて自由に動けませんでした。ぼくはミハイル兄さんと妹を必死で看病しました」
「ミハイルが怪我を?」
「川を必死で泳いで、命からがら逃げ延びたって言っていました」
「シベリア兵士の反乱の、あの時だな」
ズボフスキーの言葉に頷いた。
「当時まだ12歳の子供だったぼくは必死に兄さんを看病しました。良い子みたいに聞こえるかもしれませんが、もしこの人が死んでしまったら、ぼくらはまた路頭に迷ってしまう。まだ小さい妹の為にも、どうしても元気になってほしかったんです。理由としちゃひどい話ですね」
「いや、まだ子供だったんだ。当然の事だと思うよ」
穏やかなズボフスキーの言葉に、ホッとしたのか、イワンは大きく息を吐いた。
「傷が癒えると、ミハイル兄さんは妹を医者に診せてくれました。おかげで妹は体力を回復しました。それからしばらく3人で本当の兄弟の様に生活をしていました。そんな中で、ぼくと妹は日曜学校に行かせてもらえました、ぼくは子供ながらも、兄さんがどんな事をしているのか、なんとなく解るようになりました。兄さんの様になりたい。この世の中の事をしっかりと勉強して、兄さんの役に立ちたい。そう言った時の兄さんの顔が忘れられません」
自分には見せなかったミハイルの一面。兄ドミィートリィーの面影が重なり、アレクセイの心が震えた。