BYAKUYA-the Withered Lilac-
ビャクヤはその場に身を投げた。芝生の上であり、ワイシャツ一枚しか着ていないため、背中がチクチクした。
しかし、少し時間が経つと、そのチクチクする感じにも慣れてきた。
「真っ暗だ……なんにも見えないや。まあその方がいいか……」
ビャクヤは本当に、木々の生い茂り、空がまるで見渡せない森の奥にでもいるかのようだった。
街灯はおろか、月明り、星すらも見えない完全なる暗闇が辺りを支配していた。
――このまま目を閉じれば全て終わりそうだ。このまま闇の中に溶けて消えてしまいたいな。姉さんのいない世界なんて。僕にはやっぱり考えられないな――
ビャクヤの生きる目的全てが、姉さんのためのものだった。
姉さんという存在がなくなったことで、ビャクヤは空の器となっていた。ビャクヤは、姉さんがいるからこそ自らの生きる意味を見出だしていた。まるでビャクヤは杯であり、姉さんが水、という関係だった。
しかし、姉さんという水を失ってしまった今、ビャクヤは空の杯となってしまった。それは丁度、飲料の無くなった空の容器のようなものだ。
空になった容器は、普通必要性はなくなる。砂漠にあれば、飲み水がない限り空の容器は当然意味がない。ビャクヤは今まさにそんな状態だった。
そんなことを考えていると、突然真っ暗闇の中に発光する物体が顕れた。
「……なんだろう一体? 人がせっかく暗闇を堪能していたっていうのに……」
ビャクヤは、不意に出現した発光体に口を尖らせる。
光は真っ赤なものだった。
「これは。凶星ってやつかな?」
しかし、光は星の放つものにしてはやたらと近い。
「誰かが懐中電灯で遊んでるのか? それとも警察がこの辺をウロウロしているのかな……っぐう!?」
考えている間に突如として、ビャクヤは体が動かなくなった。
縛り付けられている感覚ではなく、まるでなにかに捕まって押さえ付けられているような感じだった。
「かっ……はっ……!」
ビャクヤは体の自由を奪われたのならず、呼吸困難に陥れられた。
息が全くできず、まるで陸に打ち上げられた魚のように、ビャクヤは口をパクパクさせた。
「んごぉっ!?」
ビャクヤは空気を求めて口を大きく開いた瞬間、黒いなにかがビャクヤの口に入り込み、一気に食道を通って胃にまで到達した。
あまりの苦しさに、ビャクヤは目が飛び出しそうなくらい見開いていた。
目の端に涙を伝わらせながら、ビャクヤは確かにそれを見た。
赤黒く発光する物体は、ギョロりと動く眼であり、ビャクヤを押さえ付けているのは四対の内、前の二対の鈎爪のような脚であり、ビャクヤの体内に入ってきたのは牙であった。
四対、合計八本の脚を持ち、眼と牙だけがある小さな頭胸部、そして丸々とした腹は、紛うことなく蜘蛛の姿そのものだった。
「あ……っ! がっ……!」
――苦しい。気持ち悪い。姉さん助けてよ!――
息もできず、体の内部をまさぐられる苦痛に、ビャクヤは死の恐怖を感じた。
――……いや待てよ。僕は助かりたいのか? 姉さんのいない。こんな世界に生き残りたいのか――
ビャクヤは、突然表れた自らの生存本能に少し驚いた。そしてとうとう、今際を迎えたと悟り、ビャクヤの心は落ち着きを取り戻していく。
そんな時だからこそ思い出したことがあった。
あれはいつだったか、姉さんと街のショッピングモールで買い物をした後、そこのカフェで一息ついていた時だった。
姉さんは友達から、人を喰う影が存在し、それに喰らわれた人は数日無気力となり、その後狂い死にする、という噂を聞かされたと言っていた。
あまりに荒唐無稽な話で、その時は二人で笑い飛ばしていたが、今その話のような状況に陥るビャクヤは全てを悟った。
――僕は。こいつに喰われて死ぬのか――
限界を超え、ビャクヤが気を失ったのは間もなくだった。
赤黒く輝く眼を持つ蜘蛛の影は、音なき声を発した。言葉としては成立しないが、その声にはこんな意味があった。
『空腹……捕食…………不味』
もとより肉がなく、ここ数日まともに食事を口にしていないビャクヤは、蜘蛛の影にとって喰うに値しない体だった。
蜘蛛の影は、ビャクヤをこれ以上喰らう事を止め、ビャクヤの口に突っ込んだ牙を引き抜いた。
蜘蛛の影はビャクヤをその場に捨て置き、どこかへ去っていく。空腹を満たすに値する獲物の捕食を求めて。
※※※
ビャクヤは、無色透明な世界に立っていた。
「あれ。ここは一体……?」
ビャクヤが辺りを見回していると、ずっと求めていた声が聞こえた。
「ビャクヤ。ビャクヤー!」
ビャクヤは、驚きながらも声のした方を向いた。
「その声……その姿は……!?」
腰元まで伸び、毛先が綺麗な扇状になっている艶やかな髪をし、古風なセーラー服に身を包み、頭に純白の百合の花飾りを付けている。
きめ細やかな白い肌であり、前髪を左に流しており、少し左目が隠れているが、とても穏やかな目をしていて、口は小さく、閉じていても自然と優しい微笑みが窺える。
「……姉さん!」
ビャクヤの前に立つ少女こそが、ビャクヤの姉さんであった。
「おはよう。ビャクヤ。よく眠れた?」
次の瞬間、無色透明だった世界が、まるでスクリーンへと一度に映像を写し出したかのように、様々な情景に包まれた。
「ああ……やっと会えた! ずっと捜してたんだよ? こんなところに隠れているなんて。姉さんは本当にお茶目なんだから」
ビャクヤは、喜ぶ素振りを見せるものの、内心は冷静だった。
「……なーんて。これってもしかしなくても走馬燈ってやつだよね」
空間を支配する、ビャクヤと姉さんの情景が記憶の走馬燈を連想させる。
映像には様々な瞬間が映し出されていた。いずれもビャクヤと姉さんとの思い出である。
ガーデニングの好きだった姉さんが、土いじりをしているところ、肥料の袋を持ち上げることができなかった。そのためビャクヤが袋を運んであげようとするのだが、ビャクヤも非力であり、運ぶのに相当苦労した。
なんとか花壇まで運びきるものの、ビャクヤは腕がピクピクと震えていた。そんな状態でもビャクヤは最大限のやせ我慢をしてみせ、その様子を見て姉さんは微笑んでいた。
――ははは……そういえば姉さんの百合の花飾り。庭で育てたんだったっけ。色々手伝ったなぁ……――
ビャクヤは、映像を見ながら懐かしんでいた。
――最期に見たのが姉さんと姉さんとの思い出なんて。神様も粋なサービスをしてくれるもんだね――
「もう。ビャクヤったらまたそうやって……遅刻しちゃうわよ?」
ただでさえ学校が面倒なのに、低血圧で朝に弱いビャクヤは、よくいつまでもベッドから離れなかった。
しかし、姉さんのこの二言目でようやくビャクヤは起き上がっていた。
「最期にこうして姉さんと会えた。ちょっとばかり苦しかったのには文句を言いたいけど。そこはどんな死に方でも大なり小なり苦しいだろうし。ありがたく思うことにするよ」
「ビャクヤ?」
姉さんは心配そうな顔をした。それすらもビャクヤには可憐に見えていたものだった。
作品名:BYAKUYA-the Withered Lilac- 作家名:綾田宗