赤き夢より覚める朝
話し続ける必要は全然ないのに。そんなことわかっているのに。
「あたし、電話くれただけでも美作さんらしいなって思ったのに、もしそうだったとしたら尊敬しちゃうよ」
それでも言葉は、止まらない。
「牧野」
「美作さんて、本当に気配りが出来る人だよね。これが類だったら、時間なんてアテにならないし、西門さんは玄関前で電話してきそう。道明寺だったら――っ……」
つくしは息を呑み、言葉は止まった。
自分の発した一言で。
ドウミョウジ ダッタラ――
なぜ口をついて出てしまったのか。本当は、今一番避けていた――避けたかった名前だったのに。
頭の中の思考が、言葉の波に攫われたような感覚だった。
「牧野」
沈黙に、あきらの声が優しく響いた。
言葉を続けなければ、と思うのに、今度は何かが詰まったようになかなか声にならない。それでもつくしは、詰まる言葉を声にした。
「道明寺だったら……電話もしてこないで、突然押し掛けてくるね。――きっと」
そう広くない部屋にいる二人の間でもギリギリ聞き取れるかどうかの、力ない掠れた声だった。
室内はしんと静まり返り、つくしはあきらに背中を向けたまま。振り向く気配のないその背中に、あきらは問いかける。
「昨日、司から電話なかったか?」
「……」
つくしの背中がほんの僅かにぴくりと動いた。答えは返ってこない。けれど、沈黙は肯定。「あったんだな」とあきらは小さく呟いた。つくしは一瞬きゅっと唇を結ぶと、口を開いた。
「うん。電話来たよ。美作さん、何で知ってるのよ。ジュニアの情報網ってやつ? それとも、うちに盗聴器でもつけてるの?」
軽い口調で、なんともない風に言い切ったつくしだけれど、振り向くことはしない。
あきらは再びその背中に問いかける。今度はもっと慎重に。
「司が、どこかの令嬢と婚約する……って話、おまえ、その――」
「うん、そうみたい」
早口でさらりとした返事だった。けれど、心のうちはさらりとなんてしていないと、表情を変えないはずの背中から、あきらはしっかり感じ取った。
それは、つくしの未来を変える大きな事実だったから。
*
昨日の夜。正確には日付が変わっていたから、今日になる。
つくしがいつもより少し遅めにベッドへ潜り込んですぐに携帯電話が鳴った。それは、数ヶ月ぶりに鳴り響く司専用の着信音だった。
司とつくしは、今年の春、春休みに入ってすぐに「婚約まがい」のことをした。類の優しい企みで、つくしの指にはミラノで一番大きいらしいダイヤの指輪がはまった。
その婚約は、司とつくしの間だけのもので、道明寺家に認めてもらえたわけでもなかったし、正式に発表されたものでもなかったけれど、離れている二人にとって、高校生だったあの頃に約束した「四年後の未来」をリアルなカタチとして捉えるきっかけとしては、十分だった。
つくしは、素直に嬉しかった。
帰りをただ待っているのではダメだ、自分も出来る範囲で頑張ろうと考え始めた矢先。司から「ちょっとゴタついてる。しばらく連絡出来そうにない」と連絡がきて、以来ぱったりと連絡がなくなった。
最初の一週間は、こんなことはよくあること、と思った。
二週間が過ぎると、いつになったら連絡できるようになるんだろう、と考え始めた。
一ヶ月が経った頃、雑誌やテレビで道明寺財閥の業績不振が報じられるようになっていた。
ゴタついている原因はこれかと、妙に納得した。やっぱり自分には何も出来ないのだと思い知らされ、ますます頑張らなければと思うようになった。大学の講義はすべて真剣に受け、バイトも続けながら、F3に協力してもらって英会話や茶道、社交界のマナーなども学び始めた。
二ヶ月が過ぎ、やり始めた様々なことに慣れ始めてもまだ連絡はなかった。
こちらから連絡をしていいものか、迷いに迷って一通だけメールを送った。
――――
元気ですか?
――――
ただそれだけのメール。
返事はなかった。そして気づけば、連絡がなくなって五ヶ月が経とうとしていた。
――もう、このまま終わっちゃうのかな。もしかしたら、もう終わっているのかもしれない。
つくしの中に、諦めにも似た思いがよぎることが多くなっていた。けれど、その度にそれを打ち消し、がむしゃらに前を向く日々だった。
携帯電話を握リしめながら、つくしは戸惑っていた。
連絡出来ない状況が解消されたのか、それとも、もっと更なる最悪の状況になったのか。
どちらに転んでもおかしくないと覚悟はしている。それでもどうにも嫌な考えばかりが頭をよぎり、出るのを躊躇ってしまい、待ち望んでいたはずの電話なのに、出たくないと心のどこかで思っている自分がいる。
一体何がしたいのか、何を望んでいるのか、何もかもが、曖昧なまま宙を彷徨っていた。そんなつくしの心を知ってか知らずか、手の中の携帯電話は鳴り続ける。じっと見つめ、それから、えいっと気合を入れて通話ボタンを押した。
「もしもし」
『よぉ。元気か?』
それは、本当に久しぶりに聞く司の声だった。その声を「変わらない」と判断するにはあまりにも久し振りすぎて、どんな声だったかと思い返す自分に驚き、少し切なくなった。
「元気よ。道明寺は相変わらず?」
『ああ。相変わらず、厭になる程忙しい』
「そう」
『ああ』
久し振りに話す恋人同士の電話なのに、沈黙ばかりが目立っていた。
連絡を取らずにいたこの五ヶ月余り、つくしにも司にもたくさんのことがあったはずで、それを端から話していけば沈黙が流れることなんてないはずなのに、今のつくしには、その出来事のたったひとつをも思い出すことが出来ず、話すことが出来なかった。
それは胸がいっぱいだったからか――いや、それならもっと甘い沈黙になるはずだ。この沈黙は、ただ重苦しさしか感じられない。
わかっていた。司が突然電話してきたのは、話さなければならないことがあるから。良くも悪くも転がる展開の、前者でないことは、この司のテンションから察することが出来る。このまま沈黙を続けていても、いつかはそのことに触れなければならない。
つくしは、思い切って口を開いた。
「道明寺。何か話があるんじゃないの?」
『……まあな』
「だったら早く話したら? 忙しいんでしょ? タイムオーバーになっちゃうよ」
『ああ』
でも言葉は続かない。再び沈黙が流れ、それは時間が経つ程に重苦しさを増していた。
もう一度促してみようかと口を開きかけた、その時。
『牧野』
道明寺のつくしを呼ぶ声が、ぽつりと落ちて、沈黙を破った。
『牧野。俺……――俺、近いうちに、婚約発表、しなきゃなんねえ』
*
数ヶ月前から一人暮らしをしているつくしの部屋に、あきらが一人で訪ねてくることは――今まで全くなかったわけではないけれど――とても珍しいことだった。しかもこんな早朝。相手があきらじゃなくても、普通ではあまりあり得ない。