赤き夢より覚める朝
どんな状況にあろうと、司は司で、充ち溢れるほどの自信はいつだって輝いていた。司の真っ直ぐな心が、折れない強さが、心から好きだった。羨ましかった。自分にその強さがあったなら、そんな心があったなら、きっと二人で同じ未来を見続けることも出来ただろう。ただ前だけを見て進んでいけただろう。
――あたしは、そんな道明寺が、好き。あたしも、あんたのように未来を見続けたかったよ。
それは、まぎれもない事実だった。
胸が熱くなるのと反比例するかのように指先が冷たくなるのを感じて、ぎゅっと握りしめると、然して長くもない爪が掌にくい込んで痛かった。
「やっぱりあたしたちは、無理だよ。あたしはあんたと別れる」
*
コンロのやかんが、しゅんしゅんと鳴り踊っていた。つまみをカチリと捻ると急速に音は弱まり、ジリジリとした余韻を残した。チチ……チチ……、と今にも止みそうな名残だけが響く。
その一部始終をじっと見つめていたつくしが、ようやく口を開く。
「あたしじゃ、ダメなの。あたしはあいつの役に立てない。悔しいけど、これが現実」
婚約が司の望むものでないことくらいわかっている。でも財閥のため、先へ進むため、司はそれを選んだ。けれどもしかしたら、あの道明寺財閥なら、司なら、婚約なんてしなくても時間さえかけたら立て直すことも可能なのかもしれない。でもそれでは、時間がかかり過ぎてしまうだろう。今の司には、それだけの余裕がなくて、どんなことをしてでも急ぐ必要があった。
それは、日本で司を待っている婚約者――つくし、がいるから。
自分の存在が、司を焦らせている。
司と話したつくしは、そう感じた。その婚約の本当の意図だったり、司本人や周囲がそれをどう解釈しているかは、つくしには正直わからない。住む世界が明らかに違うと思われるその核心部分については、わからないことが多すぎる。
けれどつくしは、わからないから従おう、とは思えなかった。自分が司の足枷になっている気がして仕方がなかった。
そう思ってしまったら、このまま自分が司と付き合い続けるのは、何か違うと感じた。司の言うままに待ち続けるのは、司にとっては意味のある時間でも、つくしにとってはまるで意味のない時間になってしまうように思えて、それは自分の選ぶべき未来ではないと、強く確信してしまった。このまま進んでも、こんなふうにしかこの場を乗り切れなかった自分を、きっとあとから後悔する。
それだけは、嫌だった。
*
『おまえに会いたい。今すぐ迎えに行きたい。ニューヨークにいても、どこにいても、おまえのことを考えてる。おまえとの未来を思ってる。俺は間違ってたか? おまえの気持ちを置き去りにしてたか? おまえには、もう俺との未来が見えることはないのか?』
絞り出すように言葉を紡いだその声には、司の愛が溢れんばかりに詰まっていた。会えない時間も、途絶えた連絡も、婚約も、そのすべてはつくしへの愛にまっすぐ向かっている。
『なあ、牧野――』
「道明寺は間違ってない。あたしだって……」
それは、つくしとて同じだった。全部わかっているからこそ、その未来は交わらない。
「ごめんね。今のあたしには、もう、道明寺との未来は見えないの」
*
部屋は沈黙に包まれ、どこからかセミの鳴き声が聞こえた。窓からの日差しが部屋の温度を徐々に上げる。
「司は納得したのか?」
「わかんない。でも、わかったとは言ってた」
「……そうか」
おそらく納得していないだろうと、あきらは思った。でも、そう言うしかない。そこへたどり着かせてしまったのは、自分の婚約話なのだから。
きっと、落ち込んでいるに違いない。いくらニューヨークに行って少しは大人になったとはいえ、司は司だ、荒れ狂っている可能性も無いとは言えない。あきらは、「わかった」と電話を切った司の心を思うと、胸に痛みが走った。
「本当にいいのか?」
「うん。こういう日がくるかもしれないことは、心のどこかでいつも覚悟してたから」
つくしらしい、さっぱりとした声だった。
「でも婚約してたんだからさ」
「あたしたちの婚約は口約束だもん」
「でも、バカでかい指輪もらっただろ?」
「……ああ、もらったね。ほんと、バカみたいにでっかいダイヤがついたやつ。――あれは正直、嬉しかったな」
つくしらしい、さっぱりとした、でも、今まで聞いたことのない柔らかさを感じる声だった。
「ああ、でもね。あの時あたしが一番嬉しかったのは、あいつに会えたことだったんだ」
「……」
「ほら、ちょっと転んで脳震盪起こしただけだったのに、あいつ慌てて昼休みに抜けてきたとか言って、ミラノから来たでしょう? ミラノからだよ? 驚いたし呆れたけど、本当に嬉しかった。そう言えばあの頃、キミコがどうのとかバカなこと言ってたっけ、あいつ。しかも、日本に指輪忘れて行ったんだよね。ほんと、バカ。バカすぎて……」
ふいに、つくしの声が途切れた。背中が、小さく震えている。
落ち込んでいるのは司だけじゃない。傷ついているのは、つらい想いを抱えているのは、つくしも同じ。この結末は、愛し合う者にしか出せない、重いもの。
あきらは静かに近づいて、項垂れたつくしの頭に、ぽんと手を乗せた。
「牧野、今までよく頑張ったな」
それはあまりにも優しくて、温かな響きを持っていた。
「……みまさかさんの、ばか」
詰まり途切れる声で吐き出すと、堪えていた涙が一気にあふれ出した。拭っても拭っても涙は後から後から溢れてくる。
――どうしよう、止まらない……。
つくしはぎゅっと唇を噛んだ。
刹那。
ふわりと甘く優しい匂いを感じたつくしは、あきらの腕の中にいた。
抱きしめられている事実にとても驚き、でもそれ以上に、凍りつきそうだった心が一瞬にして溶かされた。
その温もりに、今度こそ、涙を止める術はなかった。
つくしは、泣いた。嗚咽をもらして、心のままに。
あきらはただ黙って、泣きじゃくるつくしをそっと抱きしめ、頭を撫でていた。まるで妹にするような仕草だったが、今のつくしにはベストだった。
つくしの心に司との日々が浮かんで、そしてひとつずつふわりと消えた。
*
『牧野、もし――……』
「なに?」
『いや、なんでもねえ。……そろそろ行くわ』
「あ、うん。……道明寺」
『ん?』
「あたし、あんたのこと応援してるから」
『……ああ。おまえもあんま無理しねーで、ほどほどに頑張れよ』
「それはこっちのセリフよ」
『そうか。……じゃ』
「うん、じゃあね」
また明日にでも掛ってきそうなほどあっさり切れた電話を、つくしはしばらく握ったまま、ただ呆然としていた。
自分から終止符を打ったのに、終わったことが信じられない気持ちだった。
ふいに握ったままの携帯電話が短く震えて、メールの受信を知らせた。
あまり力の入らない指でメールを開く。
「……」
ぽたり、ぽたりとディスプレイに涙が落ちた。
「……ほんと、どうしようもない、バカ――っ……」