星屑色の降る夜
牧野が大学にあがってから知り合った、牧野にとっては何にも代えがたい「普通」の友人。金持ちでもなければ牧野に敵対心を抱いたりもしていない。大学から英徳に入ったフラットな心を持つ同級生達だった。
「こういう友達が欲しかったのよ」と嬉しそうに顔をほころばせていたのは、もう二年以上前――牧野が大学一年の頃だったか。
まあたしかに、俺達が牧野の中で「普通」と位置付けられないのは致し方無い気がする。「普通」の基準が違い過ぎるから。そして、英徳で未だ名高い「F4」は、進学組にはもちろん、フラットであるはずの大学入学組にとっても、別次元の「特殊中の特殊」な存在らしい。俺達当人の意思云々とは無関係に。
そんな俺達が牧野の大切にしている「普通」の友人との輪に踏み込めば、たった一歩で途端に空気が異なってしまうことは解り切っている。だから、牧野がその友人達と過ごしている時は、極力邪魔しないことにしていた。
おそらくそれが牧野の望みだろうと、勝手な解釈をして。
だから今日も、楽しそうなその顔を見ただけで、近づいたり話しかけたりしなかった。本当に、ただ一方的に見かけただけ。
でもなんとなく、今日は牧野も俺を見たような、そんな気がした。
いつもは違うのかと問われれば、「いつも違う」と言い切ることは出来ないけれど、後で「さっき楽しそうにしてたじゃん」と言うと「え、どこかですれ違った? 全然気づかなかったよ」なんて言葉が返ってくることは少なくない。
でも今日は、本当になんとなくだけれど、牧野の視線を感じた気がした。
とは言っても、そんな気配を感じて振り返った時には、すでに視界から牧野の姿は消えていたので、確かめてはいないのだけれど。
それが今日の午後のこと。
(でも、直接話したのは今日でも昨日でも……一昨日でもないよな。)
記憶を辿れば、講義で隣に座った月曜日が最後だという事実が浮かんだ。
(……え、嘘だろ。今日金曜だったよな。ってことは、今週は月曜以来ずっと話してなかったのか?)
自分で導き出したその現実に、俺は軽いショックを受けた。
たしかにここ数日、親父の会社に呼ばれて行ったり総二郎の野暮用に付き合ったりで忙しくしていたこともあり、講義は休みがちで――サボリがち、とも言える――、大学自体にもあんまり行っていなかった。
だから牧野と顔を合わせていないのも当然。けれど改めて考えてみれば、ここ数ヶ月でこんなに話さなかったのはこれが初めてだった。
夏の終わりに司と別れた牧野は、一時期ものすごく塞ぎ込んでいた。いつだってなんだって美味そうに食べる牧野が、どんな料理を前にしても数口しか口に運ばず「あんまり食欲が湧かないの」と痩せていったり、いつも大口開けて心底楽しそうに笑っていたのに、周囲を安心させるための笑顔しか浮かべなくなっていたり、いろいろ心配なことが多かった。
なんとか元気を取り戻して司と別れる以前の牧野に戻ってほしいと、仲間の誰もが心配して、それぞれが出来る範囲で彼女のそばにいた。
俺もその一人だ。
そもそも牧野が司と別れたその日に一緒にいたのが俺だったこともあり、誰よりも牧野の様子が気がかりだった。
俺自身にある程度の自由が利いたこと、それから彼女が俺の家に来ること――おふくろや妹達と交わることやうちに泊まることを拒まず、ある程度受け入れて楽しんでくれたこともあって、自然と俺と牧野が一緒にいる時間は多くなった。
計算も何もない――もちろん、あまり一人にしない、という思惑は俺の中にはあったけれど――、それは自然な流れで……改めて考えてみたら三日と開けずに一緒に過ごしてきていたのだ。
それが今週は月曜に話したっきり――言うならば、突然過ぎる離脱だ。
(あー、なんかしくじった。メールの真意云々の前にそのことを気にかけるべきだった。「久しぶり」とか「元気だったか?」とか、なんかあっただろうが。)
俺自身が忙しかったこともある。でもそれだけじゃなくて、牧野が元気になってきていたからいろいろ油断していた。
なんだかやけに自分が薄情者に思えて、嫌気がさす。
自分自身にチッと小さく舌打ちして、階段を一気に駆け降りた。
玄関扉を勢いよく開けた途端、容赦なく冷気が襲ってきた。
「さむっ」
思わず独り言が口をついて出る。
(そうだ、もう十二月になってたんだっけ。)
寒さに身を竦めながら、改めてそんな初歩的かつ根本的なことを思い出し、ハッと牧野のことが心配になった。
(そういやあいつ、いつから外にいるんだ?)
なんで電話の時点で気付かないんだろうと、自分のバカさ加減にホトホト呆れる。でも今の今までそのことに考えが及ばなかったのは事実で、それどころか、俺自身外に出るまで忘れてたとか、本当にどうかしてるとしか思えない。
(俺、どうしちゃったわけ?)
なんだかやけに動揺しきっている己が不思議でならないけれど、今は悠長に考えている暇などない。
急ごう、と改めて思った。
玄関から続くペーブメントを一気に駆け抜けて門の外へ出る。
右へ左へと視線を流し、そしてあまり光の届かないそこに、立ち尽くすひとつの影を見つけた。
多分こっちを見てるだろうその陰に、俺は小さく声をかけた。
「牧野……?」
「……あ、えっと……こんばんは」
さっきも聞いた律儀な挨拶が闇に溶け込む。
聞こえた声は小さかったけれど、それはたしかに牧野だった。
胸に小さな安堵感が広がる。
「悪い、遅くなった」
遅くなんかない。多分最短だ。――わかっているのに、不思議なくらいするりと言葉が零れ落ちた。
俺は上がった息を整えるように大きく息を吐く。
「何やってんだよ。ここにいるなんて思いもしなかった」
「……ごめんね、突然」
「いや、別にいいんだけどさ。でも、ここにいるなら最初からそう言えばいいのに」
言いながら近づく俺。
「っていうかむしろ、メールや電話じゃなくて直接そこのインターフォン――」
そしてあと二歩ですぐ目の前、というところで気がついた。
牧野は、泣き腫らした顔をしていた。
思わず足が止まり、続く言葉が胸の奥へと滑り落ちた。
代わりに不安が這い上がる。
「……どうしたんだよ」
「……」
「……牧野?」
見つめる先で、牧野の顔が笑った。
痛々しげに。
「牧野、何かあっ――」
「なんかもう、自分でもよくわかんない」
「……」
「なにもかもが、嫌になっちゃった」
「え?」
「……なんか……もう、疲れた」
僅かに震える掠れ気味の小さな声が響いて、そこで途切れると、その続きを語るかのように、その瞳から涙が零れ落ちた。
「まき――」
「みまさかさん……助けてほしい」
「……」
「たすけて」
それが耳に届いた途端、考えるよりも先に身体が動いた。
唇を震わせる牧野に大きく一歩近づいてその腕を掴むと、ぐっと引いてそのまま胸に抱き寄せた。
その瞬間、ハッと息を飲むような声にならない小さな悲鳴が聞こえた。
けれど牧野は、俺の胸を押し返すことも、身を捩って抵抗することもなく、そのまま俺の腕の中におさまった。
そんな牧野を、俺はぎゅっと抱きしめる。
ひんやりとしたその存在を、決して逃がさないように。
何があったかはわからない。