星屑色の降る夜
けれど「たすけて」と俺を求めた彼女を抱きしめる以外、俺は取るべき行動が思いつかなかった。
「助けるさ。牧野が望むならいくらでも」
「……」
「だから、一人で抱えなくていい」
「……」
「だから……」
そこに続く言葉はなんだろう。
俺は、何を言おうとしているんだろう。
自分でもよくわからない。
ただ、胸の奥に今まで感じたことのない大きな大きな感情が広がっていた。
ただ、俺の腕の中で肩を震わせる牧野が、心から愛しかった。
どれくらいそうしていただろう。
腕の中で牧野がふるりと身を震わせて、それと同時に俺も寒さに身体が震えた。
季節は冬。しかも闇の広がる夜。
コートも羽織らず飛び出してきた俺は寒くて当然だったが、コートを着てる牧野だって、俺よりもはるかに長く外にいるのだから、身体は冷え切っているだろう。
(いつまでもこんなとこにいたらまずいな。)
俺は牧野を抱きしめる腕を緩め、声をかけた。
「少しは落ち着いたか?」
「……うん。ごめんね、もう大丈夫」
「謝ることなんてないさ。とりあえず中入ろう。ここはさすがに寒すぎる。中でなんか飲もうぜ」
「ありがとう。……でも、今日は帰るよ」
「なんで?」
「もう時間も遅いし……あたしも、泣いたらなんだかすっきりしたから。もう、大丈夫」
そこで牧野が顔を上げた。
泣き腫らした痛々しい顔。でも、彼女の言うとおり、少しすっきりしたその表情と柔らかくなった空気感に、心の奥で安堵した。
「すっきりしたなら良かったけど、それがお茶も飲めない理由にはならないだろ?」
「そうだけど、」
「別に何か問い詰めようなんて思ってないよ。ただ、身体だけ温めていけよ。それとも、このあと何か用事でもあるのか?」
「そんなの、何もないよ」
「だったら」
「でも、こんな時間にお邪魔するのはやっぱり迷惑だから」
牧野は案の定なことを口にする。
俺は小さく笑って片眉を上げた。
「常識的心遣いは感心するけど、うちには不必要だって、おまえ知ってるだろ?」
「ここ最近じゃ誰よりも頻繁に来てたんだから」と続けた俺の言葉に、牧野は「そうだけど」と小さく呟いて視線を外した。
「おふくろも妹達もとっくに寝てる。起きてるのは俺と使用人が数人だけだ。他に客もいないし、空いてる部屋も腐るほどあるし、防音も完璧」
「それは知ってるけど……」
「今までだってさんざん深夜にバカ騒ぎしてきただろ? あのやかましい連中と」
「それもそうだけど……」
それでも躊躇う態度を見せる牧野。こういうやりとりは、どうにもまどろっこしい。でもいかにも牧野らしい。
俺はひとつ息を吐いて、それから言った。
「家に帰りたければ後で送ってやるよ。だからとりあえず入っていけよ。このままじゃ風邪ひくから。ていうか、頼む。入ってお茶だけ飲んでいってくれ。俺が寒くて耐えきれん」
その言葉にハッとしたように俺を見て――おそらくそこで俺がコートを着ていないことに気付いたと思う――、そしてようやく頷いた。
俺は笑顔で頷き返し、「よし決まり」と牧野の肩をそっと押して歩を促した。
躊躇いがちに、でも確実に牧野の足が動き出したのを感じて、俺もゆっくりと歩き出した。
邸の中へと。
「美作さん、噂が流れてるの……知ってる?」
「噂? どんな?」
「美作さんが、あたしと付き合ってるって……」
「……へえ。初耳」
「……そっか」
牧野がそう話し出したのは、一杯目のカモミールティーを飲み終えて、二杯目をカップに注いだ直後だった。
ついさっきまで、「やっぱり美味しいなあ。美作さんのおうちで飲むハーブティー」と穏やかな声で穏やかな表情で言っていたのに、そう話し出した牧野の顔は、すでに暗く沈んでいた。
*
牧野を連れて邸に戻ると、俺が飛び出していったことに気付いていた使用人がすぐに出てきた。
牧野の姿を見て驚いた表情を浮かべ、「部屋に行くから」と言った俺にさらに驚きの表情を浮かべ、でもすぐに「温かい飲み物を用意いたします」とにこやかに頭を下げたので、「頼む」とだけ告げて、俺は牧野を自分の部屋へと連れて行った。
大人しく俺の後についてきた牧野は、部屋の中へ足を踏み入れて一歩二歩と進んだところで立ち止まり、どこか居心地悪そうに視線を泳がせた。
どうしたのだろうと思ってすぐに、この部屋に牧野を招き入れたのは初めてだったと気付いた。
(いや、牧野どころか、この部屋に女を入れるのが初めてだよな。)
だから使用人があんなに驚いた顔をしたんだ、とここでようやく合点がいった。
余計なことを勘ぐられていそうだと思ったら、面倒なような照れくさいような、何とも言えない感情が浮かんだ。
牧野はまださっきと同じ場所に立ち尽くして遠慮気味に、でもどこか興味深げに部屋を見回している。
(俺に警戒してる――わけじゃねえよな。)
分かり切ったことながら、どこか微妙に残念な気もするその現実にそっと息を吐いて、脅かさないように静かに声をかけた。
「リビングのほうが良かったか?」
「え?」
「初めてだろ、この部屋。おちつかないかなあと思って」
「あ……うん。でも、ここで、大丈夫」
牧野のその返事からは、リビングがいいなんて言ってはまた迷惑をかける、という思考がはっきりと読み取れた。
(そんな気遣い無用だっていつも言ってるのに。)
でも俺はそれを言葉にしなかった。
なんとなく――本当になんとなくだけれど、ここで話したいと思った。だだっ広いリビングで、でかいソファで、離れて座ってただお茶を飲むなんて嫌だった。
(……この感情は、なんだろう……?)
頭の片隅に疑問符が浮かぶ。
けれど答えが見つかるよりも先に、使用人が温かい飲み物――シナモン入りのカモミールティーを運んできた。
ソファに座った牧野がそれを一口飲んで「わあ、美味しい」と嬉しそうに笑う。
泣き腫らした顔に戻った笑顔が嬉しくて、俺の顔にも自然と笑みが浮かんだ。
牧野がようやく笑った――ただそれだけのことが俺の心を満たして、とりあえず今は他のことはどうでもいいと思う俺がいて、そんな自分にやっぱり疑問符が浮かんだけれど、もう深く考えるのはやめた。
ただ、美味しそうにカップを口に運ぶ牧野を視界に留めながら、俺も紅茶を飲んだ。
*
「その噂、学園中に?」
訊くと牧野は、「そうみたい」と小さく頷いた。
「友達に訊かれたの。美作さんとつきあってるのかって。普段そんな噂話には興味を抱かない友達なんだけど」
「だからよっぽど広がっているんだと思う」という牧野の話に、ふうん、と返事をしながら、俺はティーカップを口に運ぶ。
その噂は全く俺の耳に届いていなかった。
でもそんなふうに噂されても仕方がないかもしれないとは思えた。
この一週間はともかく、ここ数ヶ月、俺と牧野は毎日のように一緒にいたのだから。
俺自身、総二郎や類との時間よりも牧野との時間のほうが多かったと自覚があるくらいだから、周囲の人間が俺達の仲を疑っても、なんら不思議はない気がした。
それじゃなくてもあそこは常に何かしらの噂が蔓延している。そういう場所だから。