星屑色の降る夜
ただ牧野がそれを自覚していたか否か――多分していなかっただろうなあと、それも至極当然に思う。
牧野は常々そういうことを考えて動くタイプの人間ではない。どちらかと言えば、ある時ふと気づいて大慌てするタイプだから。
でも何にせよ、それは所詮単なる噂。
噂されること自体、けっして気持ち良くはないだろうし、牧野がそれを素知らぬ顔で右から左へ流せる人間でないことも知っている。ため息を吐きたいくらいの気分ではあるだろう。
(でも、ここまで落ち込むことじゃないよな。)
泣き腫らした痛々しげな横顔を見つめれば、その理由がこれだけとは到底思えなかった。
――とはいうものの、女の涙には多くのワケがありすぎる。さらに言えば、ワケなんて何もない時もある。
涙を武器にする女だっていっぱいいる。
良くも悪くも、過去の経験から俺はそれを知っている。
ただ、牧野はそういう女じゃない。
少なくとも俺の知る牧野は、女であること自体を武器にしたりしない。人の気を引くために泣くなんてことはしない。むしろ必死に我慢をするようなやつだ。
そういう意味で、牧野は俺の知る多くの女とは異なる。
俺がここまで培ってきたノウハウが、牧野にはまるで通用しない。
だからだろうか。気づけば真剣に牧野と向き合う俺がいる。手抜きなし、驕り(おごり)もなし。いや、単純にそれだけの余裕が生まれてこないから、結果的に真剣勝負しかないのだ。
俺は牧野をじっと見つめる。
俯き加減にティーカップを見つめるその横顔は、なにか思い詰めているようで、でもそれについて積極的に語ろうと思っているようには見えなかった。
そんな牧野に「他に何が?」と問い詰める気にもなれなくて、しばし考えて、結局シンプルな言葉を落とした。
「気にすんなよ。そのうち消えるだろ」
あくまで自然に、出来るだけ軽い口調で。
牧野はその俺の言葉に顔を上げて、ほんの少し困ったような顔をした。
「ごめんね、美作さん」
「ん?」
「噂……ごめんね」
まるで想像しなかった謝罪の言葉に、頭がついていかなかった。
自分の眉間に皺が寄るのがわかる。
「なんで牧野が謝るんだよ」
「だって、あたしのせいだから」
「なんで?」
「あたしが、いつまでも甘えすぎてるから」
「……」
自分で言うのもなんだけれど、俺は勘の働くほうだと思う。
僅かな情報から相手の考えやその先に続いていくだろう言葉を読み取ることも、多分得意なほうだ。
でも今は、牧野が何を言わんとしてるのか、うまく理解できずにいた。
ますます眉間に皺が寄る。
「どういうことだよ」
問い詰めるようなことはしたくなかった。自発的に話すのをゆっくり待つつもりでいた。
でも、考えるよりも先に言葉が零れ落ちてしまっていた。
威圧的に感じただろうか、と気になったその矢先、牧野が口を開いた。
「道明寺と別れたあたしが、美作さんやみんなのそばに居て助けてもらうって、なんかおかしいことだったんだよね。本当なら、きっぱり関係が切れてもおかしくないのに。……むしろ、そうするべきなのに……」
その言葉が、俺を真相へと導いてくれた。
「ああ、そういうことか」
思わず漏れた言葉に牧野がチラリと俺を見て、「美作さんて、勘がいいよね」と力ない笑みを浮かべた。
牧野の思考回路は、一見単純で、でも実は複雑で繊細だ。いつだって必要以上に考え込んで思い詰めて、自分で自分を雁字搦め(がんじがらめ)にしてしまう。
今回もまさにそれ。牧野は自分で自分を追い詰めている。そう感じた。
(となれば俺に出来るのは、ひとつずつ紐解いてシンプルにすることか。)
冷めたカモミールティを一口飲み、それからゆるりと口を開いた。
「それって端的に言うとさ」
「うん」
「今までは司との関係があったから一緒にいたけど、それがなくなったんだから俺達とはもう一緒にいるべきじゃない。――そう思ったってことだよな?」
牧野は少し間をおいて、こくんと頷いた。
「でもそれは、自発的に浮かんだ想いではない。何かきっかけがあって、そこへ至った。……ちがう?」
「美作さんてやっぱりエスパーなの?」
「残念ながらエスパーではない。だから俺は訊かなきゃならない」
「何を?」
「そのきっかけがなんなのか」
俺は手にしていたカップを静かにテーブルに置き、そっと囁くように訊いた。
「誰かに言われた。――違うか?」
牧野は顔を上げて、俺をじっと見つめる。
ああ、図星だ、と思った。
となれば一体誰に、ということになるが、それを急かすのは多分逆効果。
「そっか」とだけ呟いて、俺は牧野が口を開くのをじっと待った。
沈黙が流れる。
やがて、牧野がぽつりぽつりと話し出した。
「今日、大学終わってから友達とご飯食べに行ったの。そしたら、一緒に行った友達のそのまた友達と偶然会って」
「それは、英徳の人間? その、友達の友達ってのも?」
うん、と牧野は頷く。
「あたしは、知らなかったんだけど、その人はあたしのこと知ってて」
「ああ、まあ、牧野はそれなりに有名だからな」
「有名? あたしが?」
牧野は首を傾げる。
相変わらずわかっていない。司の元彼女で、日頃から俺達と一緒にいる自分がどれほど学園内で有名か。
でもそれを切々と語ったところで何が変わるとも思えないのでやめておく。
「で? その友達の友達が、なんか言ったのか?」
その言葉に、牧野は途端に顔を曇らせて俯いた。
何か言われたんだと一発でわかる。
「なんて言われた?」
問うた俺の言葉を受けて、しばしの沈黙の後。
「甘えすぎてるんじゃないか――って」
牧野はぽつりと言った。
「甘えすぎてる? 牧野が?」
牧野は頷いた。
「自分から彼氏と別れたのに、別れた彼氏の親友に頼ったり助けてもらったりするのは変だって。なんだか、いつまでも寄生して優しさを利用してるように見えるって」
「……」
「どうして今も一緒にいるの? 自分だったらとても一緒になんていられない――って」
そう言って、牧野は唇を噛んだ。
牧野が一緒にメシを食いに行った友達は、今日見かけたあの連中の誰かなのだろう。そしてそのまた友達というのはあの中にはいない。
となると、それが一体誰なのか、俺には全く見当がつかない。
けれど今までの経験上、そんなことを言うやつは、こちら側――一目置かれる存在である俺達になんらかの強い意識を持っている。
おそらく他にもいろんな言葉を重ねて、牧野自らが離れなければと思うように誘導したのだろう。
でもそれは親切心からくる牧野への助言ではない。
そもそも牧野のことを知る人間なら、牧野が俺達を利用してるなんて発想には行き着かない。牧野は決してそういう人間ではないから。
知っていて尚そんな言葉を吐いているのなら、完全なる馬鹿だ。
これは単なる嫉妬――醜いジェラシーだ。
牧野は金持ちでもなんでもない普通の庶民なのに、俺達と良好な関係を築いている。
司といつ繋がりが切れた今も。
それが悔しいのだ。だから牧野は嫉妬された。
俺は思わず舌打ちをする。
癪に障った。
顔も名前もわからない完全なる部外者に物知り顔で語られたことが。
それによって傷つけられた牧野が目の前にいる。