キス10題(前半+後半)
「 6悲しい言葉を遮って 」1
今なら言える。
そう思うのは、彼を見送った後の帰り道のこと。いつもそうだ。気丈に振舞って、ではまたと笑顔で見送って、その後一人で家まで帰る、その道すがら。
今なら言えるのに。
彼はここには、いない。
夕方の橙と藍の混ざった空が美しかった。それが余計に想いを募らせるから、自然は残酷だ。
「あ。アーサーさん、忘れずに外してくださいね。金属探知機に引っかかりますよ」
服の下にあって見えないが、アーサーの首に掛けられている指輪をさす。
そうだな、菊、頼む。
目的語のない言葉を理解し、菊はアーサーの首の後ろに手を回す。慣れた仕草で鎖を解き、外した。その中心で揺れる指輪に目を落とす。
「ありがとう」
「どういたしまして」
「なぁ、いつも見てるけど、気に入ってるのか?」
いつも?
いえ、そんなことは。
でもよかった、気づかれてはいないみたい。
「いえ。感慨深いなぁって思ってるだけですよ」
「感慨? どうして」
「長い時間を、アーサーさんと共にしている、でしょう」
これくらいなら、まだ大丈夫。
まだ気づかれない。
声色に気をつけながら、なるべくさらっと、意味を乗せずにいう。
「……菊とも、長いだろ」
「えぇ、これからも長くなるといいですね」
今度は希望を乗せて言う。これからも、できることなら、あなたと共にありたい。
ここは太陽の陽が入らない。空港の、ターミナルの中だから、広く、明るくとも、それは陽ざしゆえではない。そういう場所でのアーサーの瞳は、少しだけ濃くなる。淡い碧のペリドットが今は深緑のジェイドにみえるほどに。その色の変わった瞳が、不振を灯した。声を落としていう。
「どういう、意味だ?」
どうもこうもない。
「そのままの意味ですが」
別れ際に、こんな情況は嫌だ。彼の不振を拭いたくて、口角を上げて返す。
「また、いらしてくださいね」
しぶしぶといったふうに、不振を解除したよう。
「当たり前だ。お前もそのうち来いよ。近く欧州に来る予定あるんだろ? 寄っていけよ。なんなら、ホテル代わりにしてくれてもいい。ていうかむしろそうしろ」
「ありがたい申し出ですけど、前後にも仕事があるので余計なことはしたくないです」
「余計なことってなんだよ。つれないな」
あえて冷淡に言うのを、アーサーはおもしろがって言葉を遣す。
「途中にあなたに会ったら、なんだか大変なことになりそうですから」
「それはお前の望みなんじゃないのか?」
「そういう身構えを必要にしたのはあなたです」
「そういうこと言うと、意地でも引っ張り込みたくなる」
「せいぜい離れておきますね」
「はん。好きにしろ」
皮肉のやりとりは、お互い照れ隠しだから棘はない。甘い会話だってできるのに、不思議とこうなることがある。けれどそれも楽しめる関係なのだ。それが嬉しい。
これで流れたと菊は思ったのに、アーサーは忘れていなかった。菊によって首から外され手に握らされていた指輪を、菊に渡したのだ。
「え?」
掌に乗った指輪をみて、慌てて見上げると、色の濃くなったはずの瞳がやわらかく向けられていた。
「お前が持ってろ」
「え?」
「そんなに驚くことないだろ。俺がいうんだ、お前が持っててくれ」
「だ、ってこれは、」
この人の名前を口にするのは、いささか勇気が必要だった。女々しい、と思うけれど、恋敵なのだから、しかたない。
「エリザベス女王様のものでしょう」
持ってろだなんて、なんてことを言うのですか。そこまで言って、指輪を押し返す。しかしアーサーは受け取らない。
「なんとなく、なんだ」
「はい?」
「俺がずっと持ってるのが気に食わないんだろ?」
「……」
あぁ、嫌だ。
「だから言っておく。なんとなくなんだ、これを持ってるのは。あいつの言葉は詭弁だったけど、それでも当時の俺にとっちゃ嬉しかったんだろうな」
国家と結婚いたします――その言葉を、アーサーは嬉しかったという。そうだろう、当時のアーサーは今より幼い。20歳に届いていたかどうか。無意識にでも、人を必要とする年頃のはずだ。ならば、二人のあいだにどんなやり取りがあったか知れないけれど、なおさら、指輪を受け取るわけにはいかない。
to be continued.
作品名:キス10題(前半+後半) 作家名:ゆなこ