LIMELIGHT ――白光に眩む4
「エミヤも士郎さんも、中に入った方がいいよ」
「風邪をひかないようにしてください」
立香とマシュがそれぞれに忠告して、カルデアの建物へと戻っていく。付き合いきれない、との気色を含んだ立香たちの言葉に反論もできず、二人取り残されて、士郎は、いまだ怒り冷めやらぬ様子のエミヤを窺う。
「あの、悪い。崖だとは、気づかなくて……」
立ち上がり、服についた雪を払って士郎は謝った。
思い詰めているわけでもない、何かを悲観してもいない。その様を見て、ただ、本当に崖の向こうに地面が続いていると思い込んでいたのだとエミヤにもわかった。
ほっとしたものの、自身が何をこれほどに焦っていたのかが腑に落ちない。情けないことに、いまだ冷たい汗が背筋を濡らし、微かに指先が震えてしまう。
「……視力検査をしてもらえ、大たわけ」
「目は見えてる。右目はちゃんと」
なけなしの強がりをこぼせば、士郎は真っ正直に返してくる。この話題で不毛な言い争いなど無駄が過ぎる、とエミヤは話を変えることにした。
「どこへ行こうとした」
エミヤとはどこかズレた士郎の言い訳は聞かないことにして問い質す。
「………………戻る。世話になったな」
しばらく考えるように視線をあらぬ方へ向け、まあまあ長い沈黙の後に士郎は淡々と告げる。
「な……」
その返答は、エミヤの予想だにしないものだった。
「は? 戻る? お前に戻る場所などあるのか?」
思わずエミヤは問い詰めてしまう。唇を引き結んだ士郎にハッとしたが後の祭りだ。
「…………ない、と思う」
「な、ならば、」
「でも、ここにはいられない。ここも、俺の居場所じゃない」
士郎は、カルデアにはいられないと言う。行く宛もないというのに出ていくと。
呆然とする。
エミヤには引き留める理由がない。
行きたいのならば、どこへなりとも行けばいいと、おそらく、士郎に己の歩んだ道が間違いではないと気づかされる前のエミヤならそう言ってこの雪の中を出ていく士郎を見過ごすだろう。
だが、もうそんなことができるような情況ではない。
エミヤは、士郎に安堵を覚えてしまった。士郎が何かに苛まれて震える時、己がその身を抱き込めば、震えが止まることを知ってしまった。己が士郎に何かしらの影響を与えていることに、心の底で悦びを感じてしまった。
(私はここにいるというのに? 私がいなければ、お前は安らぐことすらできないというのに?)
そのすべてをかなぐり捨てるというのか?
それでお前は、生きられるのか?
そんな大袈裟なことではないのかもしれないが、エミヤはそう思っている。
手前勝手に思い込んでいるというのに、士郎には、いまだに、とんだ勘違い野郎だと蔑まれたことはない。ならば、その考えは、あながち的外れでもないはずだと思える。
「い……、いや、ここなら、」
みっともなく引き留めようとしていることはわかっているが、ここで手を離してしまうことはできない。
使命感ではなく、エミヤは、ただただ思うのだ。
離したくない、と。
「藤丸もマシュも、みんな優しいからさ、俺は……、甘えてしまいそうになる、だか――」
「何が悪い!」
頑なに出ていく意志を曲げない士郎に思わず声を荒げた。
「え…………?」
「甘えて、何が悪い! お前は、ずっと、自身のことなど省みず、未来のためだけに闘っていたのだろう! ならば、少し甘えてもいいくらいに、帳尻を合わせろ!」
ぽかん、としている士郎に思うまま訴えた。
“どうにかして引き留めなければ”
もうその一点のみが頭の中を占めている。
「……帳尻って…………、ん? いや、なんで、あんた……」
瞠目する士郎に、エミヤは舌打ちをこぼした。
焦っていて、つい、言ってしまった。士郎との記憶がなければ知り得ないことを。
「お……、お前が必死に未来を変えようとしていたことも、私のくだらない八つ当たりに二度も付き合ったことも、お前が死に体で私を座に還したこともっ! 忘れるはずなどないだろう!」
この際、とばかりにエミヤはすべてぶちまけた。唖然としていた士郎が、パクパクと水揚げされた魚のように唇を動かしている。
「な…………、じゃ……、じゃあ、なんで…………、なんでッ! 言わなかったんだよ!」
当然、なぜだ、と士郎は噛みついてきた。
はっきりとした弁明などない。何せずっと考えていたというのに、答えが出せなかったのだ。今のこの一瞬で思い浮かぶはずなどない。
「い、言い出す機会を、逸して……いた……」
声を荒げる士郎に、エミヤは仕方なく言い訳をこぼす。
「なんだよ……それ…………。お、俺はなぁっ!」
「すまない。言いそびれてしまった。いや、言いだし難かったのもあった……」
「なんで!」
怒鳴っていたのはエミヤのはずだったというのに、立場が逆転し、士郎に問い詰められる。
「どう……、接すれば、いいかと……」
「な…………んだよ……、俺と、おんなじようなこと……言って……」
呆然としたまま言う士郎は瞬きも忘れているようだ。
「お前は、忘れるなと言っただろう?」
エミヤは、バツ悪く言い訳を並べるだけだ。もう、それしか打つ手が残っていない。
「え?」
「私に、あの地下洞穴で」
「そ、それは、お前が間違っていなかったってことで……、俺のことじゃ、なく……、て――――」
士郎は突然言葉を切り、押し黙った。
「衛宮士郎?」
「影が……」
呆然とこぼされた声。
「影?」
意味を測りかねて訊き返せば、士郎は天を仰ぐ。
「あ……」
士郎の小さな声が聞こえた。
「なんだ。どうかしたのか?」
「やっと……、見ることが、できた……」
その声は、安堵に満ちている。
エミヤの耳に届いた士郎の声を、そんなふうに思った。
***
「青い……」
風が雲を吹き流し、晴れ渡っていく空が青い。
(ああ、やっと……)
清浄な、青空の下で息をしている。
こんなことが叶うとは、士郎にとって奇跡でしかない。
ガスに覆われた灰色の空は、今となってはもう見ることもない。士郎が過去を変えたために、その未来は消え失せた。そして、消失寸前だったこの世界も未来を取り戻した。最後のマスター・藤丸立香によって、人理は修復された。
(もう……、これだけで……)
天を仰いでいれば、ひく、と喉が引き攣った。
(あれ?)
顔を下ろし、左手で口を押さえ、何度も瞬く。
(なんで……?)
点々と足下に落ちた水滴は、雪を融かしているようだ。落ちた瞬間は多少の温もりを持っているからか、それとも凍った粒になるからか、足下に積もっている雪に穴を開けている。
「え、衛宮、士郎……?」
エミヤが肩に触れてきた。
「なん……でも、ない……」
その肩を掴まれ、ますます俯き、手で目元を覆った。右腕は動かなくて、だらり、と下がったままだ。顔を隠すには左手しか使えない。
「衛宮士郎、」
「なんでも、ないって!」
声を荒げてしゃがみ込んだ。
エミヤがすぐ傍に片膝をついたのがわかって身を縮める。
そっと腕を掴んでくる手が温かい。
(コイツは……いつも……)
温かかった。
寒くて、寒くて、仕方がなかった時も、熱いくらいの体温に温められた。
作品名:LIMELIGHT ――白光に眩む4 作家名:さやけ