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自分らしく
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彼方から  第一部 第一話

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 それが何を意味するのか、青年は分かっていた。
 ここは『金の寝床』と呼ばれる、占者によって【目覚め】が現れると占われた場所。
 各国が争って、誰よりも、どの国よりも先に手に入れんと躍起になっている存在が、現れると言われた場所。
 翼竜を持つどこかの誰かが、あるいは大国が、逸早く辿り着いたのだ。
 だが、翼竜たちは『金の寝床』の上を飛び交っているだけ……樹海の上空から見る寝床は、その樹木だけがこんもりと盛り上がり、他の木々とはまるで違う様相を呈している。
 一目で、そこが目的地なのだと、分かるのに……


 典子はもう一度、今度は自分の頬を抓っていた。

 ――ああ、いたい……

 自分が夢の中にいるのではない事を確かめている。

 ――お……落ち着くのよ、典子。今までのこと、順々に思い出して……

 聞き慣れない動物達の声は耳に入っていないのか、気にする余裕がないのか、典子は近くの樹木に手を掛け寄り掛かり、とにかく状況を把握しようと努めている。

 ――そうだ、ボール! みんなと下校途中にボールがとんできて……

 受け入れがたい事実を受け入れようとするためか、あるいは受け入れたくないが為の逃避なのか、彼女はとりあえず覚えていることを思い返している。

 ――それから……それから、色んな夢見て……夢……え? 夢?

 何となく、状況を理解し始めていた時、樹海の雰囲気は突如として変わった。
 それまで、ただ聞こえていただけの動物たちの鳴き声が大きく、そして、葉や枝が擦れ合う音が、彼女のすぐ近くでし始めた。

 ―― ザァッ

 彼女の背後や頭上から、鳴き声の主たちが、樹海の動物達が駆け出してくる。
 様々な種類のやはり見たこともない小動物たち。
 状況など把握できず、思考すらも中断され、今何をすれば良いかという判断など、今の典子に出来ようはずもない。
 キッ……と、小さな鳴き声と共に一匹だけ逸れて出てきた、尾と手足の長い生き物が地面に降り立った途端、その真上から、長く太い胴体をもち、棘にも見える短くて先の尖った触手のようなものを持った、巨大なイモ虫……に見える『モノ』が、押し潰すように襲っていた。

 ―― ズンッ

 と、その『モノ』の重さが分かる軽い振動が、典子の足に伝わってくる。
 どうやって樹海の木々の中に隠していたのか不思議に思えるほどの巨体をズルッ……と引き摺り、落ち、捉えた獲物を咀嚼し始めた。
 バリバリと、骨の砕かれる耳障りな音が典子を襲う。
 目にした光景が、理解できない。

 ――なに……これ

 働きの鈍った頭に浮かんだ言葉はこれだけだった。
 トゲトゲの触手だらけのイモ虫――は獲物を咀嚼し終えると、どこに目があるのか分からない、牙の生えた丸い口しかないように思える頭を持ち上げた。
 体全体の半分くらいしか持ち上げていないが、それでも、典子よりも高い位置に口があり、その口から、血が滴っていた。

 ――ちょっと……

 怪物、化け物……何でもいいが、そうとしか思えない生物を目の当たりにし、自分の身にこれから起こるであろう恐ろしい可能性が、鈍いながらも頭に浮かぶ。
 その恐怖が少しだけ、典子の思考回路を働かせる。

 ――こっち見ないでよ、あんたなんかキライよ

 だがそれで、何がどうなると言うものでもない。
 餌として認識され、狙われた獲物が取るべき行動を取ることなど出来ない。
 そもそも、典子が生きていた世界、環境では、それは常ではないのだ、『命を守るために逃げる』と言う行動は。

 ――足が……

 化け物が自分を狙っている、襲ってくると分かっているのに、震える足は典子の脳が出している命令に従えない。
 信じられない状況と、未だ受け入れきれていない現実、それに追い打ちを掛けるようにして恐怖が、典子を支配している。
 身体を高々と持ち上げ、口を大きく開き、頭上から襲いかからんとしている化け物を見ても、典子の足と身体は身動き一つ、取れずにいた。
 ついに、と言うべきか、それが捕食者として当たり前の行動と言うべきか……化け物は、自分の重さを支えきれないかのように上から――典子の頭上から襲いかかってきた。

 ――ッ!!

 だが、典子の視界に入ってきたのは化け物の口ではなく、『誰か』の肩だった。
 身動き一つ取れずにいる彼女を軽々と片手で抱え上げ、まだ血の滴っている化け物の口から救い出してくれた。
 近くの樹の傍に、半ば放り出すような形で置かれ、助けられたという事実を認識する間もなく、彼女はただ、恐怖に口も利けず眼を見開いているだけ。
 何も出来ずにいる典子を庇うように、身を擡げ、執拗にも口から唾液を垂らし、一度狙った獲物は逃がすまじと、唾液を振りまきながら襲い来る化け物との間に、長い黒髪を棚引かせた長身の青年が剣を振り翳し立ちはだかった。

 振り翳したその剣を、青年は一振り、単に上から下に振り下ろしたようにしか見えない、ただその一振りで、自分の身体よりも太く大きな化け物の身体を両断していた。
 青年に助けられ、近場にあった樹に背中を付け、ただ成り行きを見ているしかなかった彼女のすぐ脇に、両断された化け物の身体が落ちてくる。
 
 切り倒された胴体をヒクつかせた化け物の体内から、気持ちの悪い液体が流れ出てくる。
 自分のすぐ脇に落ちてきた化け物の頭を、見開かれたままの瞳で視認する。
 圧倒的な生々しさ。
 映画も、お化け屋敷も、比較にはならない。
 まがい物ではない『実物』。
 臭いとその存在感が、典子にこれは現実なのだと、決して『夢』などではないのだと言うことを押し付けてくる。
 今の彼女に出来るのは、悲鳴を上げて押し付けられた現実から逃げることだけだった。
「き……きゃー!!」
 鞄を放りだし、前もろくに見ず、ただ走り出す。
 ぶつかった何かに、必死でしがみついた。
「きゃー! きゃー!」

 ――やだー、やだー、気色悪いよ、こわいよ、こわいよ、こわいよ

「きゃー!」

 ――なにがなんだか、わからないよ
 体が震える、その震えに耐えるように、『何か』にしがみついた両腕に力を込める。

 ――心細いよー

 トクン……

 ――不安だよー、やだよー

 トクン……

 ――や……
 
 トクン……
 少し、震えの収まってきた体に、一定のリズムを刻んだ、この世界にそぐわない典子でも知っている音が響いてくる。
 それは……

 ――心臓の鼓動が聞こえる……

 トクン……トクン……トクン……トクン……

 ――あったかい、人の体温……

 トクン……トクン……

 ――あ……落ち着いてきた

 トクン……

 ――よかった、人に会えて……
 
 そう、『人』。
 典子が初めて出会った、自分とは違う世界の『人』。
 彼女は抱きついたまま、背中に回した両手でその人の服をしっかりと掴み、心臓の鼓動を耳にし、やっと、自分と『それ以外』を認識できる落ち着きを取り戻していた。


 ――ところで この人誰だろ

 落ち着けば、見えてくるものがある、気づくことが出来る。
「……」

 ――落ちついてきてる場合じゃないっ、あたしったら、見ず知らずの人に……!