彼方から 第一部 第一話
自分が何をしているのかに……
そおっと、典子は体を離し、訳が分からない状態にパニックになっていたとはいえ、とても失礼な事をしてしまっていた自分を恥じながら、抱きついてしまったその『人』の顔を見上げた。
自分よりも、頭一つ分は優に超えるほど背が高く、長い黒髪が印象的で、細身だが、引き締まった体躯の持ち主だった。
少し俯いて見下ろしてくるその瞳も黒で、少し冷たくて……でも、とても美しく整った顔立ちをした青年。
バンダナを額に巻き、髪がそれ以上邪魔にならないよう止めているのだろうが、それも良く似合っている。
典子は、自分の記憶の中にあるどんな美形の俳優やアイドルよりも美しいその青年に見惚れ、何も言えずにただ見詰めていた。
先に眼を逸らしたのは青年の方だった。
無言で、自分の腰に回されている彼女の腕を取り、身体から離れさせると、剣を勢いよく一振りし纏わりついた化け物の体液を振り払うと鞘に納めた。
歩きながらされたその動作は滑らかで、日常の仕草の一つのように見える。
「あ……あの」
何の感情も示さない青年の態度は冷たく、人と出会えたのはいいものの、どうしたら良いのかという不安は典子から消えない。
――怒ったのかしら
「ご免なさい、あの、あたし……ここ、どこだかわかんなくて、途方に暮れてて」
おろっとしながら、それでも青年に話し掛けた。
「その上、変な怪物出て来るし、あっ、そだ、助けてくれてありがとうございました。で、つまりやっと、人に出会えたという安心感で、つい、抱きついちゃったわけで、だから、おっ――怒らないでくださいね、ねっ、ねっ」
正直に、今の自分の状況とお礼と、抱きついてしまった非礼を詫びる。
何も分からない世界、何も分からない自分の置かれた事態。
そこで出会えた自分を助けてくれた人――この人が何処かに行ってしまったら、自分はまた独りになってしまう――そう無意識に、いや本能的に感じたのかもしれない。
それがどれだけ不安で、心細くて怖くて、自分ではどうしようもないことなのか。
青年は、地面に放りだした自分の荷物を取ると、少し眉を潜めて彼女を見た。
≪あんたの言葉は、おれにはわからん≫
青年の、薄く、形の良い唇から出た言葉は、聞いた事もない言語だった。
――やっぱり、日本語じゃない
聴いた瞬間、そう思っていた。
――わ……わかっていたことだけど――この人の顔立ちや服装からして……
青年の服装は、明らかに日本の物ではなく、だからと言って、知識の中にある何処かの国の物、と言う訳でもなかった。
似たような服装は何となく記憶にあるものの、それともやはり違う。
長い、膝くらいまである上着を腰の帯で巻いて止めている。
その上着の下には、黒い、ズボンのような履物――上にも、恐らく同じような服を着ているのではと思われる。
靴は革で出来ているように見えるが、草履やサンダルのように造りは簡単で、紐で縛りあげて足に固定させているようだった。
何よりも違うのは腰から下げている剣。
それは飾りなどではなく、ちゃんとベルトで腰に据えられていて、間違いなく実戦で使われている本物……典子の世界では、日常的に使われることのない物。
綺麗な顔立ちの青年には、そぐわない代物のような気がした。
だが、それを扱う青年の動作に、不慣れな要素は見当たらない。
慣れた者の所作だった。
青年は、典子が放り出した学生鞄をその取っ手ではなく、角を手のひらに乗せ、珍しい物でも見るかのように少し上に翳して持っていたが、
≪まいったな……≫
一言そう呟き、『え』と、何を言っているのか聞き返すように言った彼女の言葉を無視し、鞄を突き返した。
≪こんなはずじゃなかったのに≫
――え?
青年のその言葉は、何を意味しているのか――
――バキッ、バキバキバキッ
静けさの中、頭上から不意に聞こえた木々の枝を折る音。
かなり大きなその音に、典子は体を震わせるほど驚いている。
それは、樹海の上空、二人のいるその場所に降りんと、翼竜たちに乗って来たどこかの国の兵士が翼竜をとめる場所を探している音だった。
≪こんなところに翼竜をとめるのは無理だ。枝が体重をささえきれん≫
≪しかし≫
空中に留まっている翼竜たち、兵士の一人が樹海の木にとまらせようとしているが、翼竜の足が乗っただけで、枝はバキバキと大きく脆い音を立て折れてゆく。
≪我々のめざす【目覚め】は、この真下の金の寝床にいるんだぞ!≫
周りの木々と違う、こんもりと盛り上がった枝葉を指差し、兵士の一人が焦りを露わに怒鳴っていた。
≪来い≫
――え?
その声が聞こえたのかどうなのか、彼女が理解しているかどうかに関係なく、青年は典子に声を掛け腕を掴む。
≪あそこの岩場に止めて、樹海の下を通って来れば≫
上空の兵士たちは、樹海の木々に翼竜をとめるのを諦め、どうしたら金の寝床に行けるかの相談を始めている。
だが……
≪冗談じゃない!! 樹海は花虫の巣じゃないか、必ず、出くわすぞ≫
兵士の言葉に呼応するかのように、樹海がざわめき始める。
青年は典子の腕を掴んで歩きながら、その気配を察するように、枝の張り巡らされた樹海の天井を気にし始めた。
≪かろうじて一匹をしとめたとしよう、だが、奴の体液のにおいは、仲間の食欲を刺激して引き寄せるんだ≫
兵士の言葉が本当なら、青年は典子を助けるために既に一匹、花虫と呼ばれる大きな芋虫にしか見えない化け物を一刀両断にしている。
≪走れ≫
――え?
端的に発せられた青年の言葉は、その事実を知っているのかどうかではなく、己が感じた気配の危険度を察知しての言葉のように思える。
≪集まってきた何十匹もの花虫から、逃れる術があるか!?≫
兵士の言葉は、二人の身に危機が迫っていることを示していた。
――えーーーーーっ
兵士の言葉通り、青年に倒された花虫の体液のにおいに引き寄せられ、上からも下からも横からも、木々の隙間と言う隙間から溢れ出るように、花虫が、触手と身体をうねらせて襲いかかってきた。
剣を右手に、左手で典子の手を握り、青年は走りながら易々と、襲いかかってくる花虫を両断してゆく。
先ほど典子を襲おうとしていた花虫の時とは違い、今の青年は走っている上に相手も動いている。
にも拘らず剣は正確にその身体を捉え、青年に両断された花虫は、引き寄せられた他の仲間の餌食になってゆく。
――ここは、あたしの世界じゃない
聴くに堪えない気持ちの悪い音、共食いをするその様に吐き気を催しながらも、典子はただ引かれる手のままに走るしかなかった。
典子の左前方から、新たな花虫がその身を乗り出している。
――こんなとこ、あたし、知らない
走った勢いのまま手を引かれ、典子は振り返った青年の胸に構える間もなくぶつかってゆく。
自分の胸に典子を押し付けるように手を引いたまま、青年は典子の前に現れた花虫を、またも一振りで動かぬ骸へと変えた。
剣を構え、樹海の外へと通じているはずの道の先を見据える。
そこには数匹の花虫が、行く手を遮るように横たわり身体を擡げていた。
作品名:彼方から 第一部 第一話 作家名:自分らしく