彼方から 第一部 第二話
俯く青年の、印象的で流れるような美しい黒髪が眼に入る。
――いきなりふってわいた、言葉も通じないあたしをかかえてさ
――ほっとくにほっとけなくて、面倒みてくれているのよね、きっと
寝てしまったことは、彼女にとっては良いことだったのか、とりあえず青年のことを考える余裕が出て来ていた。
――なのにあたしったら、足ひっぱるようなマネしてさ
自分自身を省みる事も。
彼女はクシャクシャの毛布を抱え、それを見詰めていた。
――ばふっ
布をはためかせる音が、休んでいた青年の耳に届く。
細かなゴミや落ち葉を振り落す為に、彼女は何度か毛布をはためかせたあと折りたたみ、シワを伸ばすように真っ直ぐに整えると、落し切れなかったゴミを丁寧に取り除いている。
さらに持ちやすいように折りたたむと毛布を抱え、典子は意を決したように立ち上がった。
すたすたすたと歩み寄り、ぺたんと、青年の前に正座する。
「あのっ」
と、自分から話そうと言う意思を持って、話しかける緊張からか、顔を赤らめ、
「すいません。いろいろとお世話になりっぱなしの上、ぴーぴー泣いたり寝ちゃったり、ほんとに我ながらなさけなく思ってしまったんです。つい先ほどのことですけど」
と、何事かと言うような表情で自分を見る青年に、
「なんでこういう事態になったのかわかりませんが、とにかくっ、ぐじぐじしてたって仕方がないと考えましてね、こうしてお世話いただいているのも、何かのご縁かと存じますし、この際、腹すえてついていかせていただきたいと、決意した次第なわけでして」
と、力説しだした。
両手で小さな握り拳を作りながら、青年を真っ直ぐに見詰め、決意を表明する姿は健気で可愛らしい。
おとぼけもんで緊張感がなく、世間からずれていてどこか抜けている……それが、彼女がいた世界の、友人たちの総評だった。
それは、いい意味で楽観的なのだと言うことかもしれない。
考えを切り替え、前向きになれるのは悪いことではないはずだ。
だが、自分が居た世界とは全く違うこの世界の理を受け入れると言うことは、それなりの苦労を覚悟すると言うこと……戸惑いつつもそれが出来た彼女は、ある意味強い人間だと言えるのではないだろうか……
≪何を言っているのかわからん≫
残念なのはその彼女の決意が、なんとなくでしか、青年には通じていないこと。
なんとなくでも、彼女の意気込みのようなものが、青年に通じているのは良いことなのだろうが……いきなり目の前に座り込み、わけのわからない言葉で捲し立てられ、ただ聞いているしかない青年にとって、それは困惑以外の何物でもなかった。
ぱたぱたぱた……と、小さな足音をさせて、典子が走ってくる。
「すいません、お待たせしました。ちょっと忘れ物を」
そう言いながら、筏を川の淵に掛けて待っている青年に駆け寄る。
――あの非常時にも投げ出さず、律儀に持ってきちゃったカバンだもの、忘れてっちゃ可哀相よね
状況が状況だけに、愛着も湧くのだろう。
典子は大事そうに鞄を抱えていた。
≪行くぞ≫
彼女のその様子を少し見詰めた後、青年は言葉少なに筏に乗ることを促していた。
水量の豊富な地下の川を、青年と典子を乗せて筏は流れ始めた。
――遠ざかっていく……
あの場所は――あの穴の底は一時的な居場所に過ぎない。
だが、自分がこの世界に連れて来られた場所に一番近い所でもあった。
勿論、あそこに居た所で元の世界に帰れる訳ではない。
彼女一人では、生きていくことさえ出来ない。
ただ、遠ざかることで、もう戻れないんだと再認識するのが少し辛く、寂しく思えたのかもしれない。
典子は、流れる筏から、光の差し込む穴の底をじっと、見詰めていた。
――いったい、どこへ行くんだろう……
行く先に不安を覚えるのは当然のことだろう。
何しろ彼女は見知らぬ世界に来ているのだから。
だが……
――はっ! いけない、いけない。不安なんかじゃないわ、だって決意したのよ、あたし、決意。
前向きに思い直す事が出来るのは、彼女の性格によるものか。
――ん?
そう思い握り拳を作った両手が見えなくなってくる。
流れる水音がだけが聞こえる。
川が流れているのは地下……あの穴から遠ざかれば当然、光は届かなくなり、辺りは暗闇となる……
「ま……まっ暗!」
だが、何も見えなくなるほどの暗闇など、典子は経験したことがない。
「うっそー、なにも見えないっ、やだー、うそー、そんなー」
と、暗闇による不安を掻き消したいのか、言葉を連発し始めていた。
不意に、背後から光が戻ってきた。
眼に涙を浮かべながら、光の気配に気づき典子は振り向いた。
青年が、木の根のような、枝のような細い木々を捩じり合せた松明を手に持ち、その先端に左手を翳している。
仄かな光は松明の先端に集まり、典子が見詰める中、次第に大きくなってゆく。
やがて……
――ボッ
と、火が点いた。
「……」
パチパチと木の爆ぜる音を立てて、松明はしっかりと、明かりの役目を果たしている。
≪騒々しい奴だな≫
何をそんなに騒ぐ必要があるのかと、青年の表情は言っている。
≪持ってろ≫
そう言って当たり前のように、典子に松明を渡してきた。
――いえ、あの……もしもし?
明かりが出来たのはいいが、典子の頭には疑問符がいっぱい浮かんでいる。
――今、どうやって、この火を点けたんですか?
そう、青年は、松明にただ手を翳していただけなのだ。
何か道具のようなものは一切使っていなかった。
――もしかして魔法とか、超能力とか?
――そ……そりゃあ、超人的な人だと思ってたけど、こんなことまでできるなんて
煌々と燃えている松明の火からは、熱さが、伝わってくる。
紛れもない、本物の火。
――ここの世界の人って、みんなこうなのかしら
実際に、何の道具も使わずに火を熾した現場を目の当たりにしたことで、典子にはそう思えてくる。
――だったら、あたしなんてどうなっちゃうのよ、ただの平凡な女子高生なのよ
――ちょっと、文章を書くのが好きなだけの、か弱い女の子なのよ
彼女のいた世界ではそれが普通なのだから仕方がない。
――ああ、お父さん
――あたし、お父さんの小説に出てくるような世界に来ちゃったよ
小説という、空想の世界でだけ、存在するものという認識しかない力。
――小説だったらページとばして、先を読んじゃうこともできるけど
ただ流されるだけの筏の上で、典子は青年が熾してくれた火に照らされる洞窟の中を見回していた。
でこぼこした洞窟の肌は青年の影を大きく、歪んで映しだしている。
――あたしの行く手はまっ暗で、どこに向かって進んでいるのかすらわからない
明かりの届かない洞窟の先は、真の闇。
パチパチと、火が照らし出す範囲は狭く、彼女の未来を、暗示しているようにも思える。
――でも、手元は火があるからかろうじて見えるわ
自分と、その周囲、限られた範囲にしか松明の明かりは届いていない。
作品名:彼方から 第一部 第二話 作家名:自分らしく