章之記
初めから全て出来る者など居らぬ。国と民の為であれば、陛下にいただいた長林王の王爵など、無くなっても良いのだ。
平章の思うまま、自由にやってみよ。
陛下や周りの者は平旌を可愛がる。平旌は自由気ままだ。これがあの子の本分なのだろう。恐らく、時が経とうとそれは変わらぬ。
あの子は、誰かが衣の裾を掴んで、叱ってやらねばな。これもまた、私が平旌の親だからだ。
この父には、平旌は使いきれぬだろう。道を敷いても、平旌はそこは歩まぬ。」
そうかも知れぬと、平旌は外にばかり目をやって、どこを遊び回っているのか、、、。父は軍務で、王府に帰らぬ日も多い。平章程は父と顔を合わせぬが、少ない機会の中でも、父は平旌を良く見ているのだ。
流石だ、と、平章は幾らか顔が綻(ほころ)ぶ。
「お前には私や平旌には無い力が有る。
根本から物事を捉え、そして正しく歩む力を、お前や平旌は持っている。そう育ってくれた事を嬉しく思っている。
お前の資質には更にもう一つ、あらゆる面から物事を静視し、判断し、対応してゆく力が有るのだ。その視野と気配り、対応する範囲は、知る限り並ぶ者が居らぬ。
お前はその力を好んではおらず、活かしたいとも思わぬようだが、大変な能力なのだぞ。隠すことは無いのだ。
そのお前の存在と力は、長林王府だけではなく、将来、梁の支柱となるであろう。」
大きな父の期待。
父の為になりたいと、心から思った。
「父上、私では、長林世子は務まらぬでしょう、、。ですが今、心から父上の役に立ちたいと、そう思います。」
「何を言う、これ迄、幾度お前の助言が役に立ったか。もはや、お前を子供とは思っておらぬ。大人と十分に肩を並べられよう。
世子の権限が増えれば、今後、どれ程、父が助かるか。」
「父上、今後共、ご教示下さい。」
平章は父の前で拱手し、世子冊立を受け入れた。
父の顔は満面の笑となる。
「平章よ、、何か、知りたい事があるのではないか?、お前の知りたい事は、私が答えよう。余り悩まず、余計な事を心に留めず、平章らしくやってみよ。
今は、反対する者、不平を言う者が今は居るだろうが、これまで通りにやれば、自ずと理解され、支えようとする者も増えていくだろう。」
そう、言うと、父庭生は平章の握った手に被せるように、自分の右手を乱暴に置いた。
ごつごつと、節くれだった父親の大きな手。
平章も平旌も、、、、長林王府の子では無いが、幼馴染の荀飛盞、従兄弟の簫元啓も、庭生のこの手が好きだった。
無造作に肩や手に置かれる、このごつごつとした、傷だらけの温かく大きな手から、体をも包まれるような、大きな安心感を感じるのだ。
庭生を知らぬ者は、剣を持つ「人殺しの手」だと。幾人の、、いや、何千の命をその手で奪ったかと、蔑む者も多い。
先陣に立ち、軍功が多い分だけ、浴びた血の量も、ただの兵とは比較にならぬ。
だが、子供達は皆、大切なものを、守り抜いた手である事を知っていた。
それは国であり、人々の命であり、その者達の暮らしであり、、。
そして、平章や平旌、子供達の未来なのだ。
長林王府があるが故に、周辺の国々は梁との戦を恐れ、梁との戦に一時(いっとき)躊躇する。
その事こそが、長林王府の存在の意味なのだ。
国境の長林軍は、好きで戦をしている訳では無い。
無ければ無いに越したことはないのだ。
何かを心に決めたのか、平章の眼の色が変わったのが分かった。
平章は立ち上がり、力強く父に、もう一度拱手した。
父庭生は、その姿を見て、ゆっくりと頷いた。
「お前ならば大丈夫だ。私は何も心配しておらぬ。」
「はい。」
平章の顔が穏やかに微笑んでいる。
そのまま父に背を向けると、平章は父の部屋から去って行った。
遠ざかる平章の後ろ姿を、目で追いながら、「大きくなった」と父庭生はしみじみと思う。
「あの小さな子が、こんなに立派に成長した。」
━━この成長の影には、平章自身の努力だけではなく、自分の子として、平旌と分け隔てなく育てた、長林王妃である妻の愛情も大きいだろう。
幼い平章を、突然、王府に連れて帰り、「この子を長子とする」と、私は妻に言い放った。
妻は、さぞ、戸惑ったろう。
だが、私の一言に文句も言わず、平章を受け入れたのだ。
叛逆の來陽王は罪に処されたが、その妻子は陛下の温情で許された。
だが、逆徒となった義兄は死んでも、妻子は許されず、掖幽庭に送られる事となったのだ。
私は、幼い平章が掖幽庭に送られるのを、黙って見ている事が出来なかったのだ。
義兄の面影のある、この幼子が、、、あの掖幽庭で苦労をさせられるなどと、、、、、。
あそこで、どれだけの目に遭うのかと思うと、耐えられぬ、、、。
意地の悪い太監や、狡い大人や子供。
力に歯向かえば、生きてはいられぬ。そして、小さな子供が不遇に死んでしまおうと、亡骸はうち捨てられるだけで、言及も追及もされぬ。
豪華で美しい皇宮の中に、、掖幽庭という本当の地獄がある。
抜け出す希望など見いだせず、一日を生き延びる為だけで精一杯になり、心は次第に死んでゆくのだ。
あの場所から、共に抜け出せた我等、、、。
義兄の忘れ形見を、あのまま掖幽庭に送ってしまうなどと、、私は、義兄に何と詫びたら良いのだ。
ずっと、生涯、隠しておこうと思っていたのだ。
平章を守る為にも、血を分けた我が子として、育てると決めた。
平章には絶対に分からぬようにと、心を砕いてきたのだが、、、。
私が外に作った子と、、、、。
「お前がか!」と、義兄弟や友に話すと、笑う者が多かった。
笑い話にする筈だったのだ。
、、、無理な事には綻びが生ずる。
そして人の口には戸は立てられぬ。
いつの間にか、、どこからか、平章には知れてしまったのだろう。
平章は密かに父母を探している。
聡いあの子の事だ、探し当てるかもしれぬ。
辛い両親の死に直面しよう、、、。
私もかつて、己の根が知りたくて、若い頃に探し回った事があった。
先生と陛下は、私の父母を知っている様だったが、、。
母は祁王府の侍女だったという、、、。
父親は分からぬ。
陛下は、私を突然養子にした事で、あらぬ噂も飛び交った。
陛下が外に作った子では無いかと、、、。
だが、陛下と先生の様子からして、そうでは無い。
今になって思うが、私は、お二人の、大切な故人の忘れ形見なのかも知れぬ。
掖幽庭の意地の悪い大人に、お前の母はここに来る途中で、兵士に手篭めにされたのだと聞かされて、私は掖幽庭で、ずっと蔑まれて過ごしたのだ。だが、そんな事は、掖幽庭の中では、珍しい話ではないのだ。
事実を知りたくても、母はもう亡くなっていた。
当時はそうでは無いという確信が欲しくて、時間ができると、自分の母の繋がりを、探して回ったりした、、、。
掖幽庭を出て、陛下と先生に、どれ程大切にされようとも、自分の根は知りたいものだ。
問えば、陛下は教えてくれただろうか、いつか私に話して下さるだろうか、、、、、あの頃は、ずっと心から離れなかった。
しかし、あれ程求め、知りたかった筈なのに、ある時から、どうでも良くなった。
今ならば、陛下に「知りたいか?」と問われても、笑って「否」と言えるだろう。
己の根幹など、どうでも良くなったのだ。