花と犬
銀時はクソッと悪態をついた。
「ほら、行くぞ!」
握られている手を、また、強く引っ張られる。
ふたたび、引っ張られて歩きだした。
少しまえを行く銀時の耳はまだ朱かった。
「あー、なんでこんなに暑いんだ!」
思わず、銀時は声をあげる。暑いと言ったのはこれで何度目だろう。言ったところで涼しくなるわけではないのだが、言わずにはいられない。
背中に樹の幹が触れたのを感じる。銀時は今、木陰に座っていた。
「夏だからだろう」
正面に立っている桂が、冷静に指摘してきた。
銀時は桂のほうを見る。
「んなの、わかってるよ」
「ならば、聞くな」
即座に桂は言い返してきた。
銀時もなにか言い返そうとした。けれども、残念ながら、なにも思いつかなかった。
しかたなく桂から眼を逸らし、はだけた胸元をガリガリと掻く。
「あー、あちー」
顔をしかめて、言った。
だが、ここは日陰なので日向よりはいくぶん涼しい。
銀時と桂は神社の奥の雑木林にいた。
今ごろ、他の塾生たちは川で泳いでいるだろう。今日は昼過ぎから水泳の修練が行われているのだ。だから、銀時と桂はいつものように水泳の修練を受けないことにして、松陽と他の塾生たちとは別行動している。
川で泳ぐ。この暑さだから、心惹かれることだ。けれども、別に、塾の授業で泳がなくてもいいと銀時は思う。そう思うことにする。
ふと、桂が近づいてきた。
そして、銀時のすぐそばに腰を下ろす。
「……すまないな」
詫びられた。
驚いて、桂のほうを見る。
「なにが」
「俺のせいで水泳の修練ができなくて、申し訳ない」
桂はふたたび謝罪した。その眼は前方に向けられていて、銀時のほうを見ていない。
たしかに、水泳の修練の授業を受けないのは、桂のことがあるからだ。
桂は女だ。人前できものを脱いで、他の塾生たちのようにほとんど裸に近いような格好で水泳の修練をすることなぞ、できないだろう。
できないならできないと言えばいい。だが、女であることを隠している以上、できない理由については、嘘をつくか、黙っているかのどちらかになる。どちらにしろ、桂には向いていない。女であるのに男だと、すでに嘘をついているのだが、それにはそれ相応の理由があり、それにしても桂の性分を考えれば、つらいことだろう。
だから、自分が嘘をついて、自分のわがままに桂をつき合わせていることにしようと決めた。
だが、もしも桂のことがなければ、自分は水泳の修練の授業を受けていたはずだ。そして、今ごろ、冷たい水の中で泳いでいたはずだ。
「……そんなもん、やりたかねーから、別にどーでもいい」
そう銀時は素っ気なく告げる。
暑いから水に入って泳ぎたいという気持ちはあるが、どうしてもというほどのものではない。
すると、桂の口元がふとほころんだ。
ただ微笑んだだけだ。
しかし、銀時は桂の顔を凝視してしまう。
眼が、離せない。
どうしても離せない。
見入ってしまう。
そんな銀時の変化には気づかず、桂は口を開く。
「おまえにはあのことを知られているせいだろうが」
あのこととはもちろん桂が実は女であることだろう。
「一緒にいると、ほっとする」
心臓が、強く大きく打った。
痛いほどに。
その音が全身に響き渡る。