花と犬
直後、桂は踵を返した。
銀時に背を向け、走り去っていく。
その後ろ姿を銀時はぼうぜんと見送った。
暑い、と桂は思った。部屋の中にいても、ひどく暑い。
昨日までの二日間は天候が悪く、ひどく雨が降ったりもして、気温はさほど上がらなかった。
けれど、今日は打って変わって、快晴である。
外では、青空に白く大きな雲が悠然と浮かび、草や木々の葉は活き活きとした緑色に輝いている。
桂は憂鬱な気分になった。
それは暑いせいばかりではない。
嫌な予感がしたのだ。
眼のまえで、講義していた松陽が書物を閉じた。
「これについては今日はここまでにしましょう」
そう松陽はにこやかに告げ、さらに続ける。
「暑いですから、川で水泳の修練をしましょう」
塾生たちはわっと歓声をあげた。
だが、桂は黙っていた。
嫌な予感が的中したと思った。
そんな桂をよそに、他の塾生たちは立ちあがり、縁側のほうへと向かう。
桂も立ちあがったものの、そのまま畳に立ちつくす。
「なァ、桂」
塾生のひとりが寄ってきた。
「おまえ、今日は参加するんだろ?」
そう聞いてきたのは、最近、桂が銀時を避けているのを知っているからだろう。銀時と仲違いしたのならば、桂は銀時につきあって水泳の修練に参加しないことはないと思ったのだろう。
桂は返答に窮する。
参加するつもりはない。いや、正確には、参加できない。そうはっきり告げることができればいいが、それはできない。実は女だからなどと打ち明けるわけにはいかないのだ。それができるぐらいなら最初から、女であるのを隠して男として暮らしてなぞいない。
ふいに、背後から人の近づいてくる気配がした。
「オイ、行くぞ」
そう声をかけられた。
桂が驚いて反応できずにいる間に、さっと左の手のひらをつかまれた。
握られた手を引っ張られる。
眼のまえには銀時のうしろ姿があった。
あのことを桂は思い出す。
自分はコイツに絶交を言い渡したのだった。そうされて当然のことを、コイツはしたのだ。
だが、桂は銀時の手を振りはらわず、その場に踏みとどまろうともせず、引っ張られるままに歩きだす。そうすれば、答えられない質問から自然に逃げることができるからだ。
まわりにいる塾生たちの反応は、まったく関心がない様子だったり、またかという表情をしていたり、にやにやして銀時をからかったりと、様々である。
冷やかされても銀時は無視して、無言で、どんどん進んでいく。その耳は朱い。
やがて、松陽や塾生たちからは遠く離れたところまできた。
もう二度とコイツとは喋らないと決めていたが、我慢できずに、桂は口を開く。
「放せ」
厳しい声で銀時の背中に向かって命令した。