Family complex -出会いの日-
「そういえば、まだ名前をきいていませんでしたね。お名前は?」
居間へと通し、一旦台所の火を止めてから戻ると、彼はランドセルを下ろしてちょこんと卓の隅へ座っていた。
「ルートヴィッヒ」
「ルートヴィッヒさん。素敵なお名前ですね。私は菊です。本田菊」
子供なのに遠慮がちな様子が何だかいじらしく、菊は意識して微笑んだ。
「…菊、さん」
「これ、良かったらどうぞ。美味しいですよ」
目の前にお茶と菓子の載った皿も置いてやると、「ありがとう」と返事をする。
歳の割に良くできた子だ。
「チョコレート、お嫌いですか?」
暫く手を付ける様子がないので菊が皿の中の一つを手渡すと、「ううん」と首を振ってからおずおずと手を出す。
大人びているが、その仕草はまだ子供のそれで何だか可愛らしい。
パッケージを開け口に入れたのを見計らって、菊は再度尋ねることにした。
「ところで、ルートヴィッヒさんのお父さんのお名前を伺ってもよろしいですか?」
「…ローデリヒ・エーデルシュタイン」
「ローデリヒさん…」
必死に記憶を探るが、やはりその名は聞き覚えがない。
チョコレートを口に入れて味わっているルートヴィッヒは、味が気に入ったのだろうか、とても柔らかい表情をしている。
「美味しいですか?」
聞けばこくんと頷く。その顔がどうにも幸せそうであったので、菊はもう一つどうですか、と皿を勧めた。
「いいのか?」
「もちろん」
菊が頷くと、ルートヴィッヒは嬉しそうに手を伸ばす。やはり子供なのだ。甘いものは好きなのだろう。
「ルートヴィッヒさんは、どこの小学校に通っていらっしゃるんですか?」
「●●小学校」
さらりとした口調だったが、思いがけない答えに菊は目を見張った。●●といえば、ここからはバスを乗り継いで1時間程しないとたどり着けない場所だ。
「よくここまで来られましたね…。バスに乗っていらっしゃったのですか」
「うん」
「遠かったでしょう?」
大人にはさほどでもないが、子供にとっては複雑だし、距離を感じるであろう路線だ。問いかけると、ルートヴィッヒはそれほどでもない、といった風情で首を振った。
「学校の先生に聞いて教えてもらったから大丈夫」
それでも、聞くのと実際に来るのとでは随分と差がある。
「ルートヴィッヒさんはすごいんですねえ」
感心してそう言うと、「そんなことない」と照れくさそうに視線を反らすのが何とも可愛いらしい。
その時、玄関で「ただいま!」と大きな声がした。彼が帰ってきたのだろう。
「あ、帰ってきたみたいですね」
そういって菊が席を立つより早く、
「兄さん!」
ルートヴィッヒが立ち上ったかと思うと、そういって一目散に玄関へと駆けていった。
「…兄さん?」
置いて行かれた菊は眉根を寄せる。慌てて追いかけると、玄関で声の主であろう男にルートヴィッヒが駆け寄っていくのが見えた。
「おールッツ、ちゃんと来れたみたいだな!」
「当たり前だろ、もう子供じゃないんだぞ」
「そうかそうか」
男は満足げに微笑んで、ルートヴィッヒの頭をにこにこと撫でている。
「…ギルベルトさん、これはどういうことですか」
主たる自分を差し置いて、自宅の玄関で男と少年とが謎の再会劇のようなものを繰り広げている。
全てにおいて完全に置いてけぼりを食らった菊が思わず低い声でそう言うと、男ーーギルベルトは、ぎくりと肩を震わせて、そこで初めて菊の方を見た。恐る恐る、といった様子で。
**
「で、どういう事なんですか?」
居間に正座されられたギルベルトは、事の次第を話し始めた。
曰く、ルートヴィッヒは彼の姉の子であること。その姉の夫は演奏家で、今回3年ぶりの公演のために一ヶ月海外へ行く事になった。しかし、その夫は酷い方向音痴だそうで、心配で一人では到底行かせることができず、妻である姉も夫に同行することになった。けれども息子のルートヴィッヒは学校があって一緒に行く事ができない。結果、
「ギルベルトさんが預かる事になったという訳ですか」
ギルベルトはばつが悪そうに首を竦める。
「断るとフライパンが飛んで来んだよ…」
「は?」
小さく呟かれた言葉を菊が聞き返すと、ギルベルトはばつが悪そうに「何でもねえ」と言ってそれっきり顔を背ける。
どうやらこの男、姉には頭が上がらないらしい。
「で、それでなぜルートヴィッヒさんが私の家に?」
「俺は夜勤もあるからアレだけどよ、そこんとこお前なら昼間もいるだろうし、それに…」
「それに?」
「俺んちじゃん、ここ」
「…ここは私の家ですが」
菊は顔を引きつらせた。
「だって俺、最近こっちから仕事に行ってる事の方が多…」「黙りなさい子供の前ですよ」
遮った低い一言に、ギルベルトはぴたりと口を噤んだ。
菊は苦々しい思いでその顔を見て、深々とため息を吐く。
口惜しいが、彼の言う事は否定し難い事実ではある。所謂半同棲というやつで、もちろんギルベルトにも家はあるが、ここ最近はこの本田家から仕事へ送り出す事も多くなっている。
最初は休日前夜に泊まりに来て帰るだけだったのに、いつのまにかそんな関係になってしまった。
菊自身、ギルベルトが「帰る」というと良い顔をしない、それどころか引き止めた日もあったりして、そのせいというのも…ままあるのだが。
「あの…」
その時、おずおずといった様子で小さな声が上がった。
「俺、もう一人でも大丈夫だし、家に帰るから」
ルートヴィッヒだった。気の毒にも困り果てたような表情の彼は、ギルベルトの隣りで律儀に正座をしながら、交互に菊とギルベルトを見遣っている。
「バカ、そんな事させられる訳ねーだろうが!」
「そうですよ、小学生を一人で家に置いておくなんてとんでもない!」
大人二人が慌てて取りなすように言った。ルートヴィッヒはそれでも悲しげな顔をして、二人を見上げる。
「でも、俺…」
「大丈夫です。うちでよければどうぞ好きなだけいてください」
菊はルートヴィッヒを安心させるように笑みを浮かべ、それから、律儀に正座している姿を見て「足を崩して良いですよ?」
と言ってやる。
それを聞いたギルベルトがほっとしたように足を崩そうとすると、「貴方はまだです」と鋭い声が飛んだ。
「んだよー」
ギルベルトは口を尖らせつつも、彼なりに反省はしているらしく、渋々と足を正座に戻している。
しかし、ルートヴィッヒは正座のまま困ったように菊を見るだけだ。菊はギルベルトの方をじろりと一睨みしてから、宥めるようにもう一度ルートヴィヒに向き直った。
「悪いのは、私に何も言わずにいたギルベルトさんだけですから。ルートヴィッヒさんは何の問題もありませんよ」
「でも…」
「子供は遠慮するものではありませんよ。ご両親が戻るまで、ここを家だと思ってゆっくりしていってください」
こうして、期間限定ではあるが、菊の家にもうひとり住人が増えたのだった。
作品名:Family complex -出会いの日- 作家名:青乃まち