彼方から 第一部 最終話
人間ならば、死を免れる事など到底出来そうにもない状況の中……彼は、イザークは、生きていた。
そう、人間ならば……
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カルコの町に雨が降っている。
まるで、それまでの殺伐とした空気を洗い流すかのように。
「よく降るなァ」
医師の家のドアを開けて、雨避けのフードを被り、薬草を持った恰幅の良い男がそう言いながら、中へと入ってゆく。
「はあ……久々の平和だなァ」
優しく降る雨音を耳に、家の中にいる人物がしみじみと、そう呟いた。
「ニーバや賊の残党も無事、囚人城へ送り終えたし、取り返した金も、被害者に分配したし……」
町長が、温かなお茶の入った湯呑を両手で包むようにして持ち、医師の家で寛いでいた。
「ありゃ、町長さん、来てらしたんですか」
雨避けのフードを脱ぎ、薬草を入れた笊を抱え、医師の手伝いをしている男が悠々と声を掛けた。
「や、どうも」
片手をあげ、返事をする町長。
「しかし、あの青年が服をボロボロにして帰ってきた時にはびっくりしたね、よほどの苦戦だったんだよ」
町長の話に、医師はそう応えていた。
「先生、薬草、煮詰めておきますよ」
「おお」
男の言葉に、肩越しに顔だけを向けて、医師は応えている。
「ま……しかし」
町長は一口、茶を啜る。
「わたしは渡り戦士ってものは、もっとこう、金目当てのゴロツキかと思っとったんだが、ほれ、宿で死んじまった賊どもな、あれの埋葬の時、やっこさんがポツリと言ったのを聞いとったんだ」
町長の脳裏に、夕暮れの中、町の者が手分けして、棺を埋葬するための穴を掘っている様子を、黙って見ているイザークの後姿が蘇ってくる。
「おれの体が回復するまで待ってくれたら、死なずに済んだのに……と、少し辛そうに……」
夕焼けに煌めく黒髪を、風に靡かせている彼の横顔が、浮かんでくる。
「あの時、わたしはなぜか、彼のそばにノリコを置いてやりたい気分になってな」
町長はそう言いながら頬杖をつき、少し眉を顰めている。
「それで、引き取る話を出さなかったのか?」
湯気の立つ湯呑を持ったまま、医師は町長の言葉にそう訊ねていた。
「彼がノリコを、もとの島へ連れていくと言っただろう? わたしもその方がいいと思ってね」
新しくお茶を注ぎながら、町長はあの二人へと思いを馳せていた。
――あの二人、今ごろどうしているのやら……
服をボロボロにして帰ってきたイザーク。
その服の裾を摘まんでいるノリコの姿が、町長の脳裏には蘇っていた。
「賊の件は仕方ないですよ、やらなきゃやられるっ、そんな世の中なんですから。おれなんか、彼のおかげで、助かったわけだし」
「誰だね、あんた……」
「衣装の行商人、兼、先生の患者です。足も治ったし、そろそろ町を出ようかと、ご挨拶に」
「いつの間に……」
「あ、先生どうも」
誰もが、その存在を忘れていたのではないだろうか……?
今回の騒ぎの元は、彼だといっても過言ではないのではないだろうか。
明るく、商魂たくましい行商人の彼は、呆気に取られている町長と医師を、笑顔で交互に見ている。
「国どうしの争いがなくなって、もっと治安に力を入れてくれたら、盗賊なんていなくなるんでしょうにねぇ」
診療所の奥で、薬草を煮詰めてくれている男がそう言ってくる。
それは、誰もが心に思い、願っていることだろう。
「しかし、いーよなー、あいつ。女の子と旅できて」
「あんた、何、うらやましがっとるんだね」
あっけらかんと、何の悩みもないかのような彼の言葉に、町長は呆れて、そう返していた。
ふと……
「そう言えば、彼女は……?」
医師が町長に訊ねていた。
「ん? 彼女?」
「ほら、確かエイジュさんと言った、渡り戦士の……」
「ああ! アイビスクの臣官長の依頼で来た……」
「誰のことです?」
医師と町長の間で交わされる、二人にしか分からない会話に、首を傾げるしかない行商人の彼。
「彼女なら、二人が町を出た二・三日後だったか、仕事を終えたからと、わたしのところに挨拶に来て、それから町を出ていったよ」
と町長、新たに淹れたお茶を啜りながら、その時のことを思い返すように話していた。
「ああ、あの日、盗賊の遺体を片づけるのを手伝った町の人から聞きましたよ、えらく、きれいな人だったそうですねぇ」
と、手伝いの男も話に加わってくる。
「え? 本当に?」
「おお、確かにきれいな人だった」
「あんなに見場の良い女性は、見たことがない」
「なんか不思議な雰囲気の持ち主だったしなァ」
「確かに……」
二人の相槌に、
「くっそー! 旅の土産話に、一目だけでも見ておきたかったー!」
悔しがる行商人の彼。
「あんた、何、悔しがっとるんだね……」
カルコの町に降る雨は、久しぶりの平和と共に、少しだけ緩んだ空気をも齎していた。
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雨が上がっていた。
木の枝や葉先から、残った雨が滴となって垂れ落ちてくる。
陽の光を反射し、雲を映す水溜りに、波紋を広げてゆく。
イザークの脳裏に、【目覚め】のことを指摘したケイモスの姿と、そのケイモスを何処かへと連れ去った大きな手が、そして、宿で出会った女の渡り戦士――エイジュと名乗っていた彼女の姿が、浮かんでは消えてゆく。
――気になることは色々ある
≪それでは馬さん、雨も上がったので、また、よろしくお願いします≫
大きな丸い目が可愛らしい馬に、ノリコはそう、声を掛けている。
――おれはいつまでも、ノリコを連れ歩くわけにはいかない
≪よい……≫
鞍に手を掛け、
≪しょ……≫
体を持ち上げる。
≪と……≫
そのまま鞍の上に体を乗り上げ……
「きゃっ!」
くるんっと、向こう側へ落ちてゆくノリコ。
≪きゃー、きゃー、イザーク、たすけてェ!≫
両手で鞍を掴み、片足を馬の体に引っ掛け、必死に落ちまいと頑張っているノリコ。
馬が驚き、その場で足踏みをしている。
――だが、おれはノリコの島など知らん
二人分の荷物を、馬に積みやすいように紐で結んでいたイザーク。
ノリコの声に振り向き、そのドジっぷりに呆れ、溜め息を吐いた。
――異世界になど、連れて行く術も知らん
≪あ……有難う≫
落ちそうになっているところを助けてもらい、せっかく教わった言葉を使う事も忘れ、ノリコは向こうの言葉でイザークに礼を言っていた。
――もし、このまま、人にあずけたとしても
――やがて彼女が言葉を話せるようになった時
――何も知らず、樹海や金の寝床のことを人に話したらどうなるだろう
――自ら【目覚め】であることを暴露するようなものだ
馬を落ち着かせ、その背に荷物を載せるイザーク。
――あーあ、一人で馬に乗れるようにと思ったんだけどな
――かえって手間、かけさせちゃった
思いと行動が伴わない有様に、ノリコの顔は恥ずかしさで赤く染まってゆく。
宿で教わった言葉を上手く使えるようになるのは、まだ先になるかもしれない。
――だから、今は一緒にいよう
「行くぞ」
作品名:彼方から 第一部 最終話 作家名:自分らしく