彼方から 第二部 第二話
そう言った彼女の口元が、ニィッ――と、吊り上る。
「――ひぃっ」
男は、寒気がするほどの殺気を、彼女の笑みに感じていた。
ふわっと、体が浮いた――
景色が反転してゆく。
それを認識する間もなく、男は顔面から、エイジュの足下に叩きつけられていた。
「ああ、ご免なさいね、間違って、叩きつけてしまったわ」
「ぐあぁぁっ!!」
地面に叩きつけられ、男は顔を押さえ転げ回っている。
その光景を見ていた船の客から悲鳴が上がる。
やがて、動きを止めると、男はゆっくりと顔から手を離した。
彼女の足下に這いつくばり、無残な姿を晒す。
顔は擦り剥け、鼻は潰れ、歯は折れ、血を垂れ流している。
「…………」
彼女の、外見の美しさからは想像もつかない、その冷たい声音と冷酷な仕打ち、冴え冴えとした眼に、男の手下二人と若い船員は言葉も出なかった。
「まだ……あたしに用があると言うのなら……」
エイジュはそう言って、静かに左手で剣を抜いた。
「あなた方が納得するまで、付き合ってあげても良いのだけれど?」
普通のものより、少し細身の剣先を、彼女は眼下に這いつくばっている男に向ける。
「――ッ!!」
男は尻を引き摺りながら、手と足をバタつかせ、慌てて後退って行く。
「な……何もっ! 何も用はねぇっ!! ねぇよっ!」
「あ、兄貴っ!」
手下のところまで後退り、男は助け起こされながらそう言うと、彼女を警戒するように何度も振り返りながら逃げてゆく。
「……ったく、気分が悪いこと、この上ないわ……」
男たちが見えなくなるまでその姿を見据え、エイジュはそう吐き捨てながら剣を収めた。
乗船を待ち、辺りを屯している客が、彼女を遠巻きに見てはひそひそと言葉を交わしている。
そんな客たちを余所に、エイジュは言葉を失っている若い船員に声を掛けた。
「それで……その荷物、届けて貰えるのかしら?」
「はっ……はいっ!」
ハッと我に返り、船員は慌ててそう返す。
「せ、責任をもって!」
姿勢を正して大きく頷く船員に、エイジュは笑みを返し、
「ありがとう、よろしくね」
そう言って踵を返した。
自分に向けられている人々の視線など意にも介さず、彼女は風に長い黒髪を靡かせ、颯爽と歩いてゆく。
若い船員は彼女の後ろ姿をずっと、見えなくなってもまだ、見詰めていた。
人目に付かないところまで来て、エイジュは地面を蹴るように走り出した。
――『二人、離れ離れ』
――『必要』
――『光、集まる、護れ』
小さな胸の痛みと共に、あちら側から彼女に伝えられるのは、断片的な情報と意思。
「場所は?」
彼女は端的に、あちら側に対し言葉で訊ねている。
――『白霧の森』
「二人は今、大丈夫なの?」
――『大丈夫』
――『森へ』
エイジュは更に走るスピードを上げながら、眉を顰める。
港から白霧の森までは、約1500ニベル(約1350km)はあった。
「全力で走って……2日、いえ3日というところかしら……」
障害物を跳び、躱しながら、彼女はイザークとノリコの気配を探り始めた。
遠いが確かに、二人の気配は離れている。
――光……集まる……護れ……?
――あの二人以外の者も、あたしに護れと、そう言うの……?
断片的にしか、意思や情報を伝えてこないあちら側に少し苛立ちを覚えながら、エイジュは一路、白霧の森を目指していた。
*************
星の煌めく夜空に半月が懸かっている。
ノリコは一人、ぼーーーっとしてはハッとなる――を、繰り返している。
――いかんいかん
――また、ボーっとしてしまった
その日の夜。
ノリコは何かをやっている方が気が紛れるので、夕食の片づけをさせてもらっていた。
そして、それはまず――
灯の漏れる窓の外、家の中の様子を伺う、一人の青年の登場から始まった。
――とにかく、今できることを一生懸命するのよノリコ
――ここはイザークが選んでくれた場所だもの
彼女は食器を洗うための束子をグッと握り、そう、自分に言い聞かせていた。
束子から泡が滲み、彼女の手を伝って下へと落ちてゆく。
――おばさんも、顔は怖いけどやさしい人だし
――昔のイザークのこと知ってるみたいだから
――そのうち話を聞かせてくれるかもしれないし……
食器を洗い、濯ぐ音の中、ノリコの耳に何かの物音が入った。
「おばさん?」
そう言って振り向いたノリコの眼に入ったのは――見知らぬ青年……
右手に煌めく短刀が、彼女の顔を蒼白にしてゆく。
――強盗っ!?
「き……」
「しっ、だまれっ」
青年の動きは素早かった、ノリコに悲鳴を上げる間を与えず、左手でその口を塞いできた。
「おまえは誰だ……! ガーヤはどこにいる!?」
ノリコの口を塞いだまま短刀を目の前にチラつかせ、青年は洗い場に彼女の体を押し付け、身動きを取らせないようにしながらそう、訊いてくる。
巻きの強い金髪と、力のある眼が印象的な青年。
彼は、ノリコを預かった女性を、ガーヤと、呼んだ。
「あたしはここだよ、バーナダム」
ガーヤが、粉の袋を二つ肩に担ぎ、台所に姿を現した。
「放してやりな、知人から預かった娘なんだよ。なんだろね、か弱い女の子に刃物ちらつかせて」
ノリコを押さえ、短刀を突き付けたままの青年を、ガーヤはバーナダムと呼んだ。
少し、怒りながら。
「人ン家にいきなり上り込んでこの仕業。いくら昔馴染みとはいえ、どういう了見だい?」
「あ……」
ガーヤに言われ、バーナダムはやっとノリコから手を離した。
「ごめん、つい……追われているものだから、気が立ってて……」
「……」
謝ってはくれたが、その場でノリコも『はい、そうですか』となる訳もなく。
顔を蒼褪めさせたまま、彼女はバーナダムから逃げるようにガーヤの後ろに隠れていた。
「ま……でも、大体察しはつくよ」
持ってきた粉の袋を置き、
「おまえはジェイダ左大公の警備隊の一員だ、例のクーデターの件だね」
ガーヤはそう言って、バーナダムを見据えていた。
「違うっ!!」
即座に否定するバーナダム。
「クーデターはケミル側の陰謀で、でっちあげられたものなんだ! 目の上のコブである左大公を陥れる目的で……!」
真剣な面差しで、彼は懸命にガーヤに訴えていた。
「だろうね、クーデターなんて、あの方らしくないやり方だ」
「ガーヤ……」
すぐに是認してくれる彼女に、バーナダムの気が落ち着いてくる。
二人のやり取りを、ノリコはガーヤの背中で怖々聞いていた。
「おれと同じ、灰鳥一族のあんたなら、匿ってくれると思って来たんだ」
済まなそうにそう言ってくるバーナダムの声音と眼には、切羽詰って困り果てた者の色が、浮かんでいる。
ノリコにも彼の心情や状況が、何とはなしに、伝わって来ていた。
*************
静かに、裏口の戸が開いてゆく。
「どうぞ、お入り下さい」
バーナダムは、ガーヤに開けてもらったその裏口から、外にいた人達を招き入れていた。
「おお……」
作品名:彼方から 第二部 第二話 作家名:自分らしく