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自分らしく
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彼方から 第二部 第三話

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 ――戻ろう
 イザークは雑踏の流れに逆らい、元来た道を戻っていた。
 その足の運びは自然と、速足となってゆく。

 ――戻ってみて
 ――もし何ともなければそれでいいが……

 ――こんな経験、初めてだ
 ――おれには、『遠耳』の力などなかったはずなのに
 ――なのに……
 足が止まった。
 初めての出来事に、戸惑いと躊躇いの方が先に立つ。

 ――何故
 ――あいつの声だけが聴こえるのだろう
 湧き上がる疑問に、迷いが生じてくる。
 迷いは、不安を呼ぶ……

 ――【目覚め】として
 ――この世に現れたあいつの声が
 ――この『おれ』に……
 意識の奥底、遠くの方で、名を呼ぶノリコの声が聞こえる。
 ノリコの微笑みが、笑顔が、浮かんでは消えてゆく

 ――戻らない方が
 ――いいのか……
 不安は、更なる迷いを呼び、行動力、判断力を鈍らせてゆく。

 ―― イザーク! 助けて! ――

 だが、再び聴こえたノリコの声に、迷いも躊躇いも戸惑いも、一瞬で消え去ってゆく。
 助けを求めている――ノリコが……その声が聴こえる。
 戻る理由は、それだけで十分だった。
 イザークは地面を蹴り、走り出していた。


「待て、待て、待て! 逃がしはせんぞ!」
 その背に、追い縋る声があった。
 彼が迷い、躊躇っている間に、追い付いてきたのだろう。
「まだ戦いは済んではおらんっ!!」
 走り出したイザークの出端を挫いてきたのは、ナーダの護衛をしていた兵士。
 それに、闘技屋の者たちだった。
 大通り、人の眼もある中、彼らは往来を堂々と塞いでくる。
「速やかに戻れ、無礼者っ! ナーダ様のご命令をなんと心得る! 気に入られれば、いくらでも取り立ててもらえるというのにっ!!」
 微塵も興味の持てない事柄を並べ立ててくる連中の言葉などで、イザークの足を止めることなど出来なかった。
 彼は、道を塞いでくる連中を退かす訳でも突破する訳でもなく、上を見上げ、軽く地面を蹴ると建物の屋根へと、その身を躍らせていた。
 連中の追って来られない場所へと、移動したのだ。
「屋根まで跳んだぞ」
「すげー」
「く」
 常人には出来ない芸当に感心するものがほとんどだったが、ナーダ贔屓の店の者はそうはいかなかった。

 建物の屋根から、ノリコを預けたガーヤのいる町の方を見る。

 ――しかし
 ――ノリコの町まで、全速力でも2時半かかる……

 戻ると決めたものの、その距離に違う不安が生じてくる。

 ――ッ!!
 
 気配を感じ振り向く。
「目ざとい男だな」
 同じ屋根の上、腕を組んで男が一人、立っていた。
「おまえ、能力者か?」
 そこに居たのは先日、闘技屋で『3番』と呼ばれ、戦っていた男だった。
 ナーダにバラゴが呼ばれたのと同じくして、彼も呼ばれたのだろうか。
「ま……とにかく一緒に来てもらおうや、ナーダ様にいい点数稼ぎが出来る」
 皆が、身分の高いナーダに取り入ろうと、自らの待遇を良くしてもらうことばかりを考えているようだ。

 ――またか
「いい加減にしろ、おれのことは放っておいてくれ」
 こいつもさっきの男と変わらない――そんな思いと、かかずらわっている暇などないという思いも重なったのか、イザークは新たに現れたこの男に、大した警戒も見せずに踵を返した。
「おれを、さっきの図体ばかりでかいデクノボウと一緒にするなよ、兄ちゃん」
 男はそう言うと、すっ――と両手を掲げ、背を向け、去ろうとするイザークに、掲げた手を向けた。
  
 男の手、その先から、空気を切る音がする。

 手の先から聞こえた音はそのまま一陣の風となり、イザークの体を包み込んだ。
「ぬっ!?」
 ――なんだこれは、風が……
 風は吹き抜けることなく、彼の体の周りを、纏わりつくように廻っている……

「う……っ!!」
 ――しまった!!
 その風の異常に気づき、イザークは咄嗟に口を塞いだ。
 が……
「おれも能力者の一人、風使いだ。もう遅いな、吸い込んじまっただろ」
 男の周りにも風が纏わりつき、流れている。
「緑根草と月満香のブレンドだぜ、じっくり味わってくれ」
 男の指に嵌められている幾つかの指輪の蓋が、開いている。
 そこから、塵にも等しい粉が、風の流れに乗って漂っている。
 イザークは、口を手で塞いだまま、男の起こした風の中から逃れようとした。
「まず、手足が痺れてくる」
 だが、男の言葉通りの症状が、イザークの体を襲い始める。
 足が、言うことを利かない……よろめき、屋根の上、建物の二階の壁にぶつかるように寄り掛かる。
「目も見えなくなってきただろ」
「…………」
 イザークの瞳から、次第に光が失われてゆく。
「そのうち気が遠くなって……アウトだ」

 ――不覚っ!!

 効き始めた毒に、抗う術はなかった。
 もう、その場に立っていることすら出来なくなっていた。

 ――ノリコ……
 
 意識を失う寸前、イザークは彼女のことを想っていた。
 遠い町で、助けを求めていたノリコのことを……

 毒の効力に抗えず、イザークは意識を失い、屋根から落ち、ナーダの手の者に取り囲まれていた。

   *************

 また、あちら側から断片的に情報が伝わってくる。
 小さな痛みだが、時にそれは、不快を伴う。

 限りなく広がる草原を、エイジュが疾走している。
 辺りに民家などはなく、ただ只管に広い草原……

 ――『ノリコ……』『追い駆けられている……』
 ――『イザーク……』『捕まる……』

「チッ……!」
 表情を歪め、エイジュは舌打ちをしていた。
 二人が離れて無事でいたのは、どうやら一日だけのことだったようだ。
「離れ離れなどになるからっ!」
 だが、今はどうすることもできない。
 助けにすら、行くことが出来ない。
「どうして、そんなことに……」
 思わず漏れた呟きに、

 ――『必要……』

 あちら側が、そう返してくる。
「必要……?」

 ――『光……』『集める……』『必要……』
 ――『二人のため……』『世界のため……』

 エイジュの問い掛けに、あちら側はそう返すだけ。
 その理由は、一切、伝わってこない。
「くっ……」
 エイジュは唇を噛み、走り続けた。
 まるで、草原を渡る風のように草を靡かせてゆく。
「本当に、二人は大丈夫なの?」
 不安なのは、心を急かすのは、そのことだけだった。

 ――『大丈夫……』『大丈夫……』
 ――『馬……』『用意……』

 続けて、同じ言葉を伝えてくるのは珍しいことだった。
 それはつまり、本当に大丈夫だということを、あちら側が伝えてくれている――そう言うことだろう。
「馬……?」
 あちら側が大丈夫だと伝えてくれたことで一先ずは安心したが、次いで伝えられた『馬』という言葉に、首を捻る。
 だが、それ以上、あちら側が何かを伝えてくることはなかった。
 何か緊急を要する事柄でない限り、エイジュからの問い掛けに、あちら側が反応することはない。
 あちら側が何か伝えて来た時、序のように彼女の問い掛けに、応えてくれるのだ。
 それが分かっているからか、彼女はそれ以上の思考を止めた。