BLUE MOMENT4
行くな。
連れていくな。
もう無茶はしない。士郎の意思を尊重するから……、返してくれ。
思えど声にならない。
ずいぶん小さくなり、シルエットになった姿に冷たい汗が流れる。やっと足が動き、廊下に転がっている士郎の眼鏡を拾い、遠ざかる姿を、私はただ追うしかなかった。
エレベーターに乗り込んだ六体目は一階へ向かったようだ。きっとあの窓だ。もう一台のエレベーターで私も一階へと向かう。
霊体になれば、エレベーターなど乗る必要はない。
人ではないのだ、そうすればいいというのに、文明の利器に馴染んでいるからか、それとも、あの二人に追い付くことが恐いのか……。
おそらく、後者だ。
私は、追い縋りたいというのに、士郎を返せとは、胸を張って言えない。
「くそ……っ」
悪態がどうしようもなくこぼれた。
この手の中からこぼれ落ちていったものを、私は取り戻す術など知らない。何もかもを取りこぼしてきた私に、どうやって士郎を取り戻せというのか……。
何がどうなっているかもわからない。士郎ははじめから私に何も伝えてこず、今、士郎とは、もう修復などできそうにない関係に思える。
知りたいと思うというのに、士郎のことを知る術がない。この世界に生きていたわけではないために、誰も士郎のことを知らず、私も士郎がどうやって生きていたかを知らず……。
どんどんと気持ちは落ち込んでいきながら、身体は地上へと向かい、浮上していく。一階に着き、廊下を進めば、例の窓枠に士郎を横たわらせ、六体目は床に膝をつき、士郎の右手を握ってじっとその顔を見つめている。
まるで、聖者を喪った信者のように、ただ側に侍り、ただただ復活を願っているような……。
己と同じ姿形の六体目が、そんな情けないやら、気恥ずかしいやらの状態でいるというのに、私は心底、羨ましいと思った。
ああして傍にいられるのは、士郎の信頼を得ているからだ。
(私では、到底……)
視線が足元へ落ちる。もう言い訳も浮かばない。
「っ……た……」
不意に士郎の声を耳が拾う。
「出した、のか……」
擦り寄る六体目の頬を撫でた士郎は、小さな笑みを浮かべている……。
「おま……え、の、せいじゃ……ない、よ……」
苦しげな声は、生命の維持装置ともいえる六体目が士郎から離れているからだろう。
「ごめ……な……」
自分のせいだから、と士郎は六体目を慰めるようにその白い髪を撫でている。
(胸が……焦げ付く……)
知らず、胸元に手を当てて、悔しさに歯を喰いしばっていることしかできない。
そのうちに、士郎は六体目を引き寄せ、その姿が消え、士郎は身体を起こした。
「はぁ……、また、やってしまったな……」
(な……に……?)
また? どういうことだ?
少なくとも、こんなことが、二回以上はあったということだ。
いや、もしくは、頻繁に?
「…………」
何も聞いていない。
私は何も知らない。
どういうことだ?
なぜ、私に何も言わずに……?
怒りよりも哀しさが募る。悔しさが拭えない。私は士郎にとって、なんらその心にかかるものではなかったのだと思い知る。
だが、これは、見過ごせない事態だ。
士郎が私をどう思っていようと、こんな危険な状態のまま放っておくわけにはいかない。六体目が長く士郎から離れてしまえば、その身体は危篤状態に陥る可能性もある。
(私の纏まらない感情など、後回しだ!)
なけなしの理性と冷静さを引っ張り出してきて、士郎に歩み寄った。今は、こちらが最優先だ。
「あ……」
ようやく私に気づいた士郎は呆然としている。
「今のは、どういうことだ」
静かに訊けば、まずった、というような顔をした。
「えっと……」
困ったような笑みを作って言葉を探し、士郎は半身を捻って窓へ顔を向ける。
「時々……、離れることが、あって……」
ぽつり、とこぼし、観念したように士郎は説明をはじめた。
身体が動くようになってから気づいた違和感、何かの拍子に六体目と分離してしまうこと。
自分なりに改善を試みていたが、うまくいっていないようだ、と他人事のように笑って士郎は言う。
なぜ、私に一言も相談しなかったのか。
どうして、こいつはいつも、いつも……。
言いたいことは山ほどあるというのに、何も言葉にならなかった。士郎の不調にも気づかず、相談すらしてもらえず、ただ私は士郎を自身の我が儘で貪っていただけだ。偉そうに忠告も何も言える立場ではない。
「……同調率は完璧なのに、離れるってことは、俺に問題があるんだ」
私が何も言わないからか、居心地が悪そうな顔で、士郎は自分のせいだと言って、何もかもを一人で引き受けようとする。
こいつの悪い癖だ。こいつはいつまで経っても一人なのだと思い込んでいる。
「所長代理には相談したのか?」
「まだ」
「たわけ! 明日、朝一で行くぞ!」
士郎の腕を掴み、立ち上がらせる。
「あ、の、アーチャー?」
何を不思議そうな顔をしているのだ。
「さっさと戻るぞ!」
瞬間、さ、と青ざめた士郎に苛立ちが募った。
動こうとしない士郎は私の部屋に戻りたくないのだろう。わかっていても、手を離す気にはなれない。いつまた六体目が分離してしまうかもしれないのだ。一人になどできない。
いまだ肉付きのよくない細い腰を引き寄せ、横抱きにして、士郎には有無を言わさず、さっさと自室に向かう。
「あの……」
その先の言葉は、士郎の口からただの一つも出てこない。
青くなって、戦々恐々としているのが、身を硬くしていることでありありと感じられる。
苛立ちは募るばかりだ。だが、怒鳴ることもおかしい。
私は士郎に何を言う資格もないのだから……。
部屋へ戻り、ベッドに士郎を下ろし、私もそのままベッドに乗り上がる。真一文字に唇を引き結んだ士郎は、少し俯いたままで琥珀色の瞳を揺らしている。
僅かだが、呼吸が乱れている。
(これは……)
恐がっているのだと容易にわかった。
何が恐いかなど、考えなくてもわかり切っている。士郎は私が恐いのだ。
(いつも、こんなに怯えさせていたのか……)
改めて、私は何も見えていなかったのだと気づかされる。そっと眼帯を外したつもりだが、震えを誘った。肩を掴めば、息を詰めている。
(私は、なんてことを……)
できるだけ背中に触れないように気を配り、士郎を抱き込んで横になる。
「あ、の……?」
「すまなかった」
「な、なに、が?」
小さく震える身体にやるせなさが募る。
「……すべてにおいて」
「え?」
「もう寝ろ」
「あ、う、うん……」
士郎にわかるように謝罪をするには一晩では足りない。とにかく先に、融合したはずの六体目が離れてしまう事態をどうにかしなければならない。
「おやすみ、士郎」
「え? う、うん、お、おや、すみ」
たどたどしく答える士郎がやたらと可愛く思え、抱きしめた腕に力が籠もりそうになるのを、どうにかして抑えることに必死だった。
深夜を過ぎ、ようやく士郎は静かな寝息を立てるようになった。
「士郎……」
私は、士郎を傷つけていただけだったのか……。
作品名:BLUE MOMENT4 作家名:さやけ