BLUE MOMENT8
思わず抱きしめたくなって一気に距離を縮める。僅か三歩の距離まで詰めれば、士郎が息を呑んだのがわかった。伸ばしかけた腕に急ブレーキをかける。
(だめだ……)
ここでしくじるわけにはいかない。とにかく、今はカルデアに戻ることを了承させなければならない。
「士郎、予定は変更だ」
「え?」
「端末を」
私が手を出せば、士郎はイヤホンマイクごとポケットに入れていた端末を手渡してくる。
端末を受け取り、数歩下がった。士郎に要らぬ不安を与えたくはない。
だが、注意を怠りはしなかった。士郎が逃げていかないかと気に留めながら端末を確かめる。電源はやはり切れていた。電源を入れてバッテリーを確認すれば、たいして減ってはいない。ということは……、
「電源を落としたのか?」
イヤホンを片耳に嵌めながら訊けば、
「……たぶん」
「覚えがないのか?」
視線を落とした士郎は、こくり、と頷いた。
「所長代理が慌てていた。唯一の通信手段が失われて、悪化する数値だけが次々と送られてくるものの、お前の様子がわからないのだ。しかも悪くなるばかりのバイタルでは、私が差し向けられても仕方がないだ――」
『士郎くん! エミヤと合流したかい?』
耳がキーンとなるほどの声量で所長代理が訊く。おそらくずっと端末が繋がるのを待っていたのだろう。
「っ……、ああ、合流した……」
片耳を耳鳴りに襲われたまま、どうにか答える。
『エミヤ? よかった! 会えたんだね!』
「ああ、これから――」
『説得だね? よろしく頼むよ』
「一度切るぞ」
『ああ、わかったよ。って、通信をだよね? 電源は落とさ――』
プツ、と通信を切り、次いで端末の電源を落とす。
いろいろと慎重にならざるを得ないので、邪魔をされるのは遠慮したい。あとで山ほど怒られようともかまわない。今は、士郎に集中したい。
「いいのか? 電源、落として」
「合流したことがわかればいい。電源が入っていれば、もしかすると盗み聞きをされるかもしれない。不特定多数の者に聞かれたくもないからな」
士郎は怪訝な顔をして私を見ている。
眼鏡の奥に見える琥珀色の瞳は、赤みを帯びはじめた柔らかな陽光を映し込んで、時折、きら、と輝く。
(ああ、やっと……)
たった半月ほど会わなかっただけだというのに、その瞳を見ることができただけで、こんなにも嬉しく思う。
「士郎、カルデアに戻ろう」
「まだ、調査が途中だ」
硬い声が返ってくる。つい怯みそうになって、ここで尻込みしてどうする、と自身を叱咤する。とにかく士郎を連れてカルデアに戻ることが第一条件なのだ。なんとしても士郎を納得させてやる。
何度目かの意気込みを新たにして、士郎を真っ直ぐに見つめ返した。
「それが続けられない、という判断を所長代理が下した。したがって、お前は戻るべきだ」
私を見ていた琥珀の瞳は、次第に下方へと落ちていく。そうして、ふるり、と首を横に振る。
「士郎、お前の身体は――」
「うん。知ってる」
「それでも、戻らない、と?」
「あそこは……、カルデアは、俺の居場所じゃない」
きっぱりと言うクセに、拳を握りしめて必死になって、何を堪えているのか、こいつは……。
素直になれと、率直になんでも話してくれればと、私は何度、思えばいいのだろうか。
「ここに、残るつもりか……?」
里心でもついたのかと訊けば、再び私を見た士郎と目が合う。
「そんなわけにはいかないだろ。ここは、俺のいた世界じゃないから……」
「では、どこに行――」
「今日は、衛宮士郎の命日なんだってさ……」
「命……日?」
行き先を訊こうとすれば、士郎は突然、話を変えてしまった。
「この世界の衛宮士郎のな」
「それを、どこで……」
「墓地で、藤ねえが」
「あの人と、話した……のか?」
「ああ。俺じゃないように見えるんだってさ。この眼鏡のおかげで」
そう言って士郎は寂しげに微笑(わら)った。
新たな眼鏡は、士郎の姿をカムフラージュする機能があるのだという。どういう仕組みかは知らないが、それは普通の人間に対する効力のようだ。私には士郎にしか見えない。この寂しげな笑みを浮かべているのは、私が求める者の姿でしかない。
(ああ、これが……)
士郎の作られていない笑顔は、これだけだ。
今さらそんなことに気づく。
(こんな……、寂しい笑い方しか……)
苦い想いが湧いてくる。こうなるまでの士郎の生き方がますます知りたくなる。
「…………行くあてが、あるのか?」
「ないよ」
「ならば、」
「カルデアには行かない」
「なぜだ?」
「俺のいる場所じゃないだろ、あそこは。カルデアは、人類を救った者たちの場所だ。俺がいていい場所じゃない」
諦めた顔で、士郎ははっきりと言った。
「そんなことはない。お前にもやるべきことが、」
「それは誰にでもできることじゃないか。保全の作業もダ・ヴィンチが頼んでくる雑用も、厨房の補助も、みんな代替えが、」
「お前しかいない!」
「え……」
「保全も雑用も他の者でもいいかもしれない! だが、厨房での私の助手は、お前だけだ!」
「…………なに、言って、」
「あれやこれやと指示をしなくとも、私の思った通りに動けるのは士郎だけだ。玉藻の前も清姫もブーティカも料理は得意だが、私とは考え方が違う。したがって…………、いや、」
厨房の話に熱を入れてどうするのだ。
そういうことではなく、私が望むことをきちんと言葉にしなければ、士郎には欠片も伝わらない。
それを何度も味わい、思い知らされたはずだ。
士郎には、はっきりと言葉にしなければならないと。
数歩の距離を詰めていく。
「傍にいてくれ」
「っ、な、なん――」
「厨房での助手など本当はどうでもいい。ただ、私の傍にいてくれるだけでいい」
「ア……、アンタ、なに、言って、」
「帰ろう、士郎。カルデアに戻ろう。私は、お前といたい。言ったはずだ、いつまで現界を続けられるかわからないこの刹那を、私はお前と過ごしているのだと。それが、私の何よりも代えがたい記憶になるのだと」
間近で琥珀色の瞳を真っ直ぐに見つめる。
「なんで……、アンタが……そんなこと……言う……」
悔しげに顔を歪め、震える唇で、士郎は私を責めているような口ぶりだ。
なぜ、突然手のひらを反すのかと思っているのだろう。なにせ私は士郎を怨み、憎悪していると士郎は思い込んでいるのだから。
(何をどう話せばいいのか……)
正しいことなどわからない。だが、手離したくはないのだこいつを。こいつと過ごす、この刹那を。
「いい加減、正直にならなければ、一番大切なものを失ってしまう、と思ってな……。何もかもを取りこぼし続けた私にもやっと一つ……」
そっと手を持ち上げ、眼鏡のつるを抓めば、士郎は息を詰めて唇を引き結んだ。
「まだ、間に合うかもしれないと手を伸ばすことができるものが、ここにある」
慎重に士郎の眼鏡を外し、頬に触れ、逃げないことを確かめてから、そろりと撫でる。
「ぁ…………っ……」
微かな音ではあったが、私を呼んだ。私を見つめて、何度も唇が“アーチャー”と辿っている。
(そんなせつなく呼ばないでくれ……)
作品名:BLUE MOMENT8 作家名:さやけ