BLUE MOMENT8
今すぐに抱きしめてしまいそうになる。
理性を山ほどかき集めて、自分自身を抑えつけ、どうにか暴走を食い止めていれば、溢れてこぼれ落ちた士郎の涙が私の手を濡らした。
「士郎……」
さらに半歩距離を詰めれば、はっとして私から逃げようとする。その腰に空いた手を回した。
「っ……」
士郎がなぜ泣くのかがわからない。苦しいのか悲しいのか、それとも恐ろしいのか。私は士郎をなんら理解できていないことを思い知る。
「たくさん説明しなければならないことがある。……が、とにかく分離してしまう六体目をどうにかしなければならないだろう。カルデアを出るにしても、そこだけはきちんと治しておかなければ、いつ何時、六体目が離れ、危険な目に遭うかわからない」
今ここで逃がさないように正論でまくしたてた。目を伏せた士郎は私を見つめてはくれない。
もう、無理なのだろうか?
もう、私は失ってしまっているのだろうか?
「……………………治ったら、出てく……から……」
冷たい汗が鳩尾を濡らす。士郎の決意は固く、もう止めようがない。
それはだめだ、と即刻却下したいが、今ここで問答などしたら、士郎は石のように固い意志でカルデアに戻らないと言い張りかねない。
「…………わかった。それでいい。私には、お前を縛る権利はない」
頑なに言い切る士郎に、今の私は了承するよりほかない。とにかくカルデアに戻って、六体目との融合の調整を行わなければ士郎の身が危険だ。
六体目との融合が完璧に成れば、士郎は出ていくかもしれない。そんなことを望んでなどいないが、士郎の自由を奪うつもりはないし、そんな権利、そもそも私にはないのだ。
「だが、私は本気だ。お前を諦めるつもりはない」
だから、宣戦布告をしておいた。
士郎が真っ当な理由を述べたところで、私はそれに従う気はない。無理強いはしないと誓うが、士郎が出ていくからと言い張ったとて、それを黙って見過ごすなど、断じてごめん被る。
「……っ、なんで、アンタは……」
突かれたように顔を上げた士郎と目が合う。
「士郎?」
言葉に詰まった士郎は、悔しそうに、それでいて辛そうに、歯を喰いしばり、眇めた目で私を見つめて、怒るでもなく、ただ泣いていて……。
「……そんなこと…………、言って……俺を、どうしよ…………も、なく…………する……」
完全に項垂れてしまった士郎の、だらり、と垂れた手をそっと握れば、僅かに握り返してきた。
ほんの少し指先が動いた程度だが、それだけでいい。士郎が逃げないのならば……、今は、それで御の字だ。
「では、行くぞ」
腰に回した手を離し、握った手を引き歩き出す。
そのまま士郎を抱きしめたかった。息が詰まるほどにかき抱いて、離したくなかった。
だが、今、私が先走って士郎がまた逃げてしまえば元も子もない。
とにかく、カルデアへ。
それからのことは、……棚上げだ。
今はまだ、士郎に納得させることができそうにない。
(情けないばかりだな……、英霊ともあろう者が……)
少し自嘲してしまう。
私は本当に、いつのまにこんな感情を士郎に向けていたのだろうか。
そして、どうして、強引になれないのか。
今までのように有無を言わさず事に及んだとて、士郎は受け入れるのだ。そうした方が何倍も楽だというのに……。
こんな、士郎のご機嫌を窺うような真似をして、そこまでして引き留めたい、など……。しかも、士郎はカルデアから出ていくと言い張っていて、私はそれを容認して…………。
本当ならば手離したくはない。しかし、私はカルデアのサーヴァントで、士郎はこの世界の衛宮士郎ではないが人間だ。無理を通すわけにはいかない。私の我が儘など、貫くことはできない。
理性を山ほど引っ張り出して、士郎の手を引いて歩く。
「ど、どこに、行くんだ?」
戸惑いながら私に訊ねる士郎に答えず、笑みを返すにとどまる。
「あ、あの……」
笑い返してくれるとは思わなかったが、士郎は俯いてしまう。目も合わせたくないのかと、正直、落ち込みそうになる。
だが、ため息を呑み込んで前を向き直る瞬間に見えたのは……。
(士郎の耳が少し赤いと思うのは、気のせいだろうか?)
私がいつも瑞々しい果実のようだと思っていた耳朶……。
触れられるのが極端に嫌いな箇所。
(その反応は、どう捉えればいい?)
訊くに訊けない。
(ああ、触れたい……)
耳だけではなく、その身体にも唇にも。
だが、もう、そういうことをする機会は訪れないのだろう。士郎はカルデアを出ると決めているのだし、それを無理に引き留めることはできない。
士郎は自由であるべきだと思う。その身も心も。
今まで多くのことを堪えてきたのだろうから、もう、思う通りに生きればいいと思う。私の想いなど二の次だ。
そんな物分かりのいいことを口先で言いつつ、絶対にカルデアに居たいと言わせるつもりではいる。絶対に諦めない。エミヤシロウは、元来諦めの悪い男だ。こいつが例外なだけで……。
(その、例外になった理由は……)
きっと士郎の過去にその原因があるはずだ。それを突き止めることも、まだできていない。
(強引ではなく、じっくりと話す必要が、我々にはある……)
これから士郎と新たな関係を築いていくために、まず、士郎のことを知らなければならない。
懐かしい街が夕暮れに染まる中を、士郎の手を引いて赤い橋を渡りきる。会話があるわけでもなく、ただ黙々と手を引き、引かれる我々は、さぞかし可笑しな姿だと、行きかう人々には映っただろう。
やがて、人けのない路地裏で士郎を肩に担ぎ、驚くままの士郎は放置で、ビルの壁面を足掛かりに、とあるビルの屋上へと至った。
士郎をそっと下ろせば、冷たい風に顔を上げて気づいたようだ。
「ここ……」
「ああ」
ここは、黄昏に士郎と別れた場所だ。ちょうど、頃合いも同じ。
茜色の空が、藍に落ちていく寸前だ。
この場所と時間を私は所長代理に指定した。士郎に思い出してほしいという下心もあったが、何より私にとってここは、この黄昏は、深く刺さっている記憶なのだ。
(ここから始まった……)
ここで士郎が消えていくのを見送った時から、今の私がある。
あの時とは少し違う、戸惑いながら私を映す琥珀色の双眸が、今、私を見つめている。
「あの……なんで……」
「黄昏だと言ったな、お前は」
「え……?」
「人生の黄昏だと。三十足らずで何を生意気なと思ったが……、お前の言い分は、あながち外れてもいないのだろう」
「アーチャー?」
「お前は、諦めているな?」
「っ…………」
「ずっと不可解だと思っていた。エミヤシロウは、元来、諦めの悪い男だったはずだ。だというのにお前は、すべてを諦めている。そのことにやっと気づいた。そして、お前が何もかもから遠ざかろうとしている、ということに納得がいった。……私の考えは、間違っているか?」
「……当たってるよ…………」
半身をこちらに向けていた士郎は目を伏せ、空を赤く染めながら沈んでいく太陽へと身体を向け、完全に私から顔を逸らした。
吹き上げてくる風に、赤銅色の髪はされるがままに揺れ、赤く染められた頬は笑みを刻むわけでもない。
作品名:BLUE MOMENT8 作家名:さやけ