彼方から 第二部 第六話
腕を伸ばしてくるジーナを受け取りながら、アゴルは、馬の上で恥ずかしげに俯くノリコを盗み見ていた。
「ジーナ」
娘を抱き寄せ、小声で問う。
「ノリコを占たか?」
「う……うん、あの……」
ジーナは父の問いに、少し、躊躇った。
「分かんなかったの」
「え?」
「何も、分かんなかったの」
「…………そうか」
娘、ジーナハースの返答に、アゴルは何も訊き返さなかった。
ノリコに続いて馬に乗るイザークの背中を見やりながら、ジーナの言葉を、ただ、聞いた。
――お父さんには、言わない方がいい……そんな気がする
――お姉ちゃんを占た時が
――【目覚め】を占た時と同じようにぐちゃぐちゃしてたとか
――それから……
――あのイザークって人が近付いてきた時
――あたし……
――震えるくらい、怖かったこととか……
それは――『占者』としての勘のようなものだろうか……
それとも、父の仕事を、何となくでも分かった上での、娘としての判断だったのか……
いずれにしても、彼女の――ジーナハースの『占者』としての能力は、幼いながらも高いものだと分かる。
ラチェフが『稀代』と言ったことも、リェンカの代表たちが『50人分の働き』と言ったことも頷ける。
恐らく、占者であれば誰でも、彼女と同じように占えたり感じたりするというものではないだろう。
高い能力を有する者だけが、分かるのだ。
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「これは一体、何事だっ!!」
静まり返ったナーダの城。
試合会場には何十人、何百人もの人が地に倒れ伏し、気を失っている。
「たっ、只今調べてまいりますっ!」
「動ける者を集めろ! 状況を説明させるんだっ!」
城の中にいる者も、そのほとんどが外にいる者と同様に倒れ、動かない。
正規の軍服を身に着けた兵士たちが、訳の分からない状況に慌てふためき、手分けして城の中を走り回っている。
「ナーダ様はどこだっ! ジェイダを捕えたというから、このケミルが出向いたというのにっ!!」
本来なら、侍従頭がこのケミルを迎えるはずなのだろう。
だが、その侍従頭も、当のナーダ本人も、使用人や警備の兵士たちも、今は試合会場や城のあちこちで倒れ伏している。
イザークが風に乗せ、吹き巡らしたカイダールの痺れ薬のせいで……
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「えっ!? ケミルがっ!?」
バーナダムが驚き、訊き返している。
「試合前にな、連絡を寄越してきたんだよ。あと一時ほどで城に着く……とな」
無事に、再び出会うことが出来たが、彼らは一息つく間もなく、これからの行く先について話し合っているところだった。
追われている身なのは重々承知している。
故に、追手の動向は一番気にかかる所だ。
その追手の情報を、バラゴが知っていた。
「おまえ達が知らねぇのも無理はねぇがな、今の城が、追手を出す余裕もねぇと踏んでんだったら、大間違いだ。まっ、多分、今ごろ大騒ぎになってるだろう」
話し合いの中、ガーヤはジーナに占ってもらった結果を踏まえ、『白霧の森』というところを通って隣国へ、占者である自分の姉を頼り、グゼナに行こうと提案していた。
だが、その提案をバーナダムは受け入れず、遠くても関所まで出た方がいいと、そう主張していた。
そんな中での、バラゴから出た情報だった。
「すぐさま追手が掛けられ、伝令があちこちに飛ぶな。当然、国外脱出の行動は予想されるだろうから、関所は勿論、その行く道すら、厳戒態勢になる」
バラゴの話は、十分予想し得る、そして、そうなる可能性が極めて高いものだ。
顔に似合わない、冷静な状況判断に、反論の余地はない。
「あそこは、化物が出るという魔の森だ。だから、バーナダムが反対する気持ちはよく分かる。あたしだって、占者のあの子にそう言われた時も、そうすぐには、気持ちを決めることは出来なかった」
未だ、躊躇いの表情が崩れないバーナダムに、昔馴染みであるガーヤがそう、説き伏せている。
「だが、そんな森だからこそ、ケミルにとって盲点になる」
左大公の息子、兄のロンタルナの言葉に、弟コーリキが隣で頷いている。
「ジーナがそう占ったというなら、それはおれ達の運命だ……どの道、避けられない」
アゴルは、占者としての娘の言葉を信じ、疑わないのだろう。
その全てを受け入れる覚悟が、彼には既にあるように思える。
これから先、どうするか……皆の行動は、バラゴの齎した情報で決まった。
「ところで、あんた誰だい?」
今更のようなガーヤの問いに、
「成り行きで、こっちへくっついて来るしかなくなった男だ、気にするな」
バラゴはそう返していた。
一行は、馬を走らせる。
ジーナが占った森へ……
白霧の森――魔の森へ……
一度足を踏み入れれば、二度と出ることは出来ない。
そう言われている森は、闘技屋のある街から少し北へ馬を走らせたところ……
丘を越えたその向こうに、大きく、広がっていた。
ガーヤの姉が住むという隣国グゼナに通じる道が、森を抜けた先にある。
遠く、山々の稜線が浮かび見える森の向こう――その山の麓のどこかに、隣国へ抜ける為のトンネルが、山越えをせずに済む道があるのだ。
だが、森は広く、そして深い――
得体の知れない化物と、対峙しなくてはならないかもしれない。
一行は拭うことの出来ない不安を抱えつつ、馬を森へと向かわせた。
“ 人間ガ来タ ”
誰かの――何かの思念が、森を震わせている。
“ 憎ィ…… ”
それは一つではなく複数の……大勢の思念。
“ 殺セ…… ”
しかし、震わせているのは、従わせているのはまた別の……何か。
“ 地獄ヘ落トセ…… ”
黒々とした恨みや嫉み、妬み、憎しみ――負の念をざわつかせ、震わせている。
負に満ちた暗い世界の中に一つ……たった一つ光が見える。
大勢の負の思念が満ちる中、ただ中で一つ――いや一人で、待っている。
それは、少年――雨の夜、ノリコの前に、消え入りそうな弱い光で姿を見せた、あの、美しい、少年……
彼女が来た!!
気配を感じ、少年は俯く顔を上げる。
それは心待ちにした気配……苦しく、悲しみに満ちたこの状況を救ってくれる存在。
――ノリコを、彼女を、少年は待っていた。
魔の森、白霧の森に来てくれるのを……
*************
警戒を促すような鳥の羽音と鳴き声が、左大公の一行の後を付いて回っている。
彼らは、何年も人が足を踏み入れていない森に残る道を、馬を歩かせ、通ってゆく。
――普通の、森なんだけどなあ
――ああ、なんだか、イザークと初めて会った樹海を思い出す
――ここにも、花虫みたいなのが出てくるのかしら
馬の上、背にイザークの温もりを感じながら、ノリコは辺りの景色を見回していた。
見る限り、どこにも異常は感じられない、至って『普通』の森にしか思えない。
だが、『魔の森』という事前情報があるせいか、ノリコはつい、怪物や化物の存在を想像してしまう。
どのくらい進んだだろうか……静かだった。
作品名:彼方から 第二部 第六話 作家名:自分らしく