彼方から 第二部 第六話
静かなのが却って不気味に思えるほど、今のところ何事も起きていない。
だが、魔の手は確実に、忍び寄っていた。
「…………」
馬の様子が、おかしかった。
ただ歩かせているだけなのに息が荒く、落ち着かなくなっている。
眼が血走り、無用な動きが多い……
「なぁ……コーリキ、森の奥へ入るにつれて、馬の様子がどんどんおかしくなっているとは思わないか?」
「ああ……と!」
兄の問いに返事を返そうとした矢先、コーリキの馬が激しく首を振る。
「よしよし、どうした……」
コーリキは馬の首を優しく撫でつけ、何とか落ち着かせたが……
「うわっ!」
「お父さんっ!!」
今度は左大公の乗る馬がいきなり飛び跳ねた。
――カーーーッ!!
「きゃっ!!」
イザークとノリコが乗る馬も、背に乗る二人を威嚇するように首を後ろに向け、荒々しく吠える。
「どうどうっ!」
「落ちつけっ! こらっ!!」
次から次へと、馬は連鎖反応を起こし、落ち着きを失くし暴れ、荒々しい嘶きを上げていく。
それまでの静けさは、もう、どこかへと消え去っていた……
「馬は捨てた方がいいな」
何とかして馬を落ち着かせ、イザークは皆を見てそう言う。
「あ……ああ」
息の荒い馬の上、左大公が何とか気を取り直し、イザークにそう返している。
「この興奮の仕方は異常だ。このままでは暴走を始め、皆が散り散りになってしまう恐れがある」
誰も入り込まない広い森の中、もしもそうなってしまったら、捜し出すのは困難を極める。
イザークの判断に、誰も否は唱えない。
「ふん……さすがは魔の森だね、なんとも不気味なこった」
表情を硬くし、ガーヤはそう呟いていた。
――恐いな……
ノリコは、未だ動悸の収まらない胸に手を当て、そう感じていた。
――狂いかけた馬達の様子が、この先、何かが待っていることを暗示している
――なのに、みんなに脅えた様子はあまりない
――やっぱり、それなりの鍛錬と経験を積み重ねて来た人達だから、戦う気構えと言うものが出来ているんだ
――ジーナはさすがに、アゴルさんにべったりくっついているけど、でもあの子はあの子で、特殊な力を持っているし……
自分とは違い、落ち着いているように見える他の人たちの様。
経験や鍛錬の積み重ねというものが、どれだけ対処の差として出るのか、よく分かる。
ノリコは、そんな日常に身を置いていた訳ではないのだから、恐いと感じることを恥じる必要はないのだが……
それでも、『違い』を肌で感じる、気にせずにはいられなくなる。
――大丈夫だろうか、あたし……
――イザークとテレパシーが出来るくらいしか、取り柄、ないのに……
自分で自分が心配になってくる。
くぇーーーーっ!!
「……っ!?」
どこからか、馬の嘶きが聴こえてくる。
イザークはハッとして、その方向を見た。
馬を降り、荷物を下ろそうとしていた他の面々の耳にも届く。
「何だ? 馬の嘶き……?」
「おれ達以外にも、誰かこの森に入った奴がいるのか……?」
アゴルの呟きに、バーナダムが首を傾げ、辺りを見回している。
他の面々も耳を澄まし、眼を凝らし、周囲の様子を窺い始めた。
木々の葉や枝の擦れ合う音が近付いてくる。
その音に混じり、馬を落ち着かせようとする人の声も、聴こえてくる。
「……一人、か?」
じっと、その音のする方を見据えるイザークがそう呟いた。
近づいてくる音に、皆の緊張が高まってくる。
ノリコは思わずイザークに身を寄せ、その左腕を取っていた。
「きゃあぁあっ!? お願いっ! 止まってぇっ!!」
緑の濃い葉を撒き散らし、乱立する木々の間から不意に、馬が飛び出してきた。
「なっ!」
「あっ!」
「うわっ!!」
皆、口々に驚きの声を上げながら、馬を避け、身構える。
イザークはノリコを庇いながら馬上の人物を見とめ、眼を見張った。
「あんたはっ!!」
「エイジュさんっ!!」
ノリコとイザークが同時に叫ぶ。
「イザークッ!? ノリコッ!?」
飛び跳ね、暴れる馬を何とか御しながら、エイジュもそう叫んでいた。
「エイジュだって?」
ノリコが呼んだ名前に左大公が反応する。
驚いたように馬上の人物を確かめる。
「おいっ! 何してるお前らっ! 止めろ止めろっ!!」
バラゴがそう言いながら、飛び跳ね、エイジュを振り落そうとしている馬の手綱を取りに行く。
他に、出てくる馬がいないか警戒していた面々も、飛び出してきたのが一頭だけと分かると、アゴルとイザークたち以外はバラゴに倣い、とりあえず、暴れる馬を数人がかりで落ち着かせようとし始めた。
*************
その様子を見ながら、ノリコは何となく、イザークの纏う雰囲気がさっきとは違うことに気付いた。
何がどうということではないが、庇ってくれながら、エイジュの、彼女のことを見据えている。
その眼が、少し冷たく、厳しいように思える。
ノリコ自身は、彼女に言葉を教えてもらったり、優しくしてもらった覚えしかない為、『いい人』としか思っていない。
だがイザークは、カルコの町でノリコが安心して、泣いて眠ってしまった後、少しだが言葉を交わしている。
その時の印象しかないせいもあるが、どうしても警戒心が解けない。
確か、カルコの町で町長に渡り戦士をしていると言っていた……能力者だ、とも。
偶然……? いや、だが――なくはないだろうが、今、このタイミングでと言うのが気になった。
もう一人、アゴルも彼女に警戒心を抱いていた。
イザークとノリコを知っている……そう分かった時、カルコの町で聞いた話しを思い出していた。
『ちょうど同じ時に、女の渡り戦士も来ていてね
彼女もきれーだったな、ノリコに言葉を教えてやってたりしてたっけ
アイビスクの臣官長の依頼を受けて――とか、言っていたが……』
偶然か……? と思う。
だが、偶然にしては出来過ぎている。
女の渡り戦士など、そうはいない。
しかも二人を知っているとなれば――同一人物としか言いようがない。
この短期間に、全くの別行動をとっていた人物と再会する確率は、どれくらいのものなのだろうか。
彼女と自分を重ねてしまう。
もしや彼女も、この二人を追って来たのでは……? そんな考えが頭を過る。
アイビスクの臣官長の依頼で動いていたという話だったが、本当は、どこかの国のスパイなのでは――その可能性は極めて高いのでは……アゴルはそう思っていた。
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「あ……有難う御座います……突然暴れて、どうしようもなくて……」
舌をだらりと垂らし、疲れ果てた様子の馬から降りながら、エイジュは手を貸してくれた面々にそう礼を言い、微笑んだ。
バーナダムや左大公の息子たちの顔が、少し赤くなってゆく。
「エイジュ……?」
彼らの背後から声が掛かる。
皆の視線が、息子たちの背後に向けられる。
「まさか、本当にエイジュ? エイジュール・ド・ラクエール……君なのか?」
驚きに満ちた笑みを見せて、左大公がゆっくりと歩み寄ってきた。
作品名:彼方から 第二部 第六話 作家名:自分らしく