オペラ座の廃人
第一獄、アケローン河の川岸。そこでは陽気なイタリアンがカンツォーネを歌っていた。
「オーソレミ~~~~~オ~~~~~♪」
愉快なゴンドラ野郎カロンである。
彼は陽気な上に部下達にも優しいので、休憩時間中は彼の詰め所に雑兵達がよく集まっていた。
「サンタルチア」と「帰れソレントへ」を立続けに歌って拍手喝采を受けたカロンは、非常に嬉しそうな顔で雑兵達の拍手に応えた。
「おうおう、お前らもっと乗せてみろッ!」
「カロン様、サイコー!!」
「もう一曲、もう一曲!」
段々酒宴のノリを呈してきた中、この声で場は一気に静まり返った。
「大変な人気ぶりだな、カロン。亡者が河の向こうで待っているのではないか?」
「・・・・・・・」
この声には、聞き覚えがあった。というか、自分の上司の声によく似ていた。
怖ず怖ずと声の方向に振り向くと、壮麗な冥衣姿のラダマンティスが無表情でカロンのワンマンショーを観覧していた。
その後ろには本職の音楽家二人。
「どうだい、ファラオ。カロンの歌いっぷりは」
「素人としてならば、かなりいいのではないのか?
ヴェネツィアのゴンドラ乗りは歌いながら櫂を使うため、声量はあるらしいしな。お前はどう見る?」
「声はでかいし、陽気でいいけど、たまに音程外すよね。出だしの音が半音ずれたし。でも素人だから許容範囲か」
「てめぇら、ケンカ売りに来たのか?」
オールをつかみ出すカロン。悪びれずに「褒めてるんだよ」と微笑むオルフェ。
「どこがだ」
ラダマンティスとファラオに同時に即座に突っ込まれたが。
と、本題を思い出したラダマンティスはカロンに事の次第を説明した。
「……と、こういう訳なのだが、お前にパンドラ様の護衛のためオペラ座に行ってもらいたい」
カロンはヒュウと口笛を吹くと、
「オペラとは悪くないですな~。昔はよく真似してカルメン歌ったもんだ。いいでしょう、行きましょう」
「行ってくれるか!」
ラダマンティスは両手でカロンの手を掴むと、感激をかくせない様子で何度も上下に振った。
立派な眉毛の下のいつもは眼光鋭い目が、今日は涙で潤んでいる。
上司のスキンシップが少々痛むのか、カロンはやや顔を引きつらせていたが、
「で、ラダマンティス様。演目は何です?ワーグナーは大嫌いなのでねぇ、それだったら絶対に行きません」
「そ、そうか。演目は……ちょっと待て。パンドラ様に貰ったパンフレットが……」
ラダマンティスは冥衣の翼に挟んでおいた、オペラのパンフレットを取り出す。
そんな場所に挟んでよく落ちなかったものだ。
さて、記載されていた演目。
「『トリスタンとイゾルテ』だそうだ。知っているか?」
演目を告げた途端、カロンは先程の陽気さが嘘だったかのように激しくまくしたてた。
「けっ!ホモ皇帝に援助受けてた軟弱者の曲かよ!ラダマンティス様、申し訳ありませんがこの話はなかった事にしてくだせぇ。俺はガキの頃から『オペラはイタリア』と思ってるもんでね」
カロンはきゅっと踵を返すと、ああ仕事仕事!と叫びながら持ち場へ戻っていった。
カロンがワーグナーを激しく嫌っている理由は、ルネの閻魔帳にも書いていないため知る事は不可である。
望みを断たれたラダマンティスは、口からエクトプラムズが出てきそうなくらいに生気を失っていた。
突き付けられた現実の厳しさに、彼は膝から地面に崩れ落ちた。
ああ、自分はどうしても見たくもないオペラを見に行かなくてはならないのか。
居眠りもできない、鼾もかけない、護衛だから中座もできない。
何故自分はオペラ座という名の華麗な生き地獄に行かなくてはならないのか。
体の端から風化しかねないラダマンティスをさすがに気の毒に思ったのか、音楽家連中はそれなりに智恵を出し合う事にした。
口は悪いが、それなりにやる事はやるのである。
「ドイツ語わかる人間なら、ワーグナーでも面白いんじゃない?結構ドイツ語圏の人間いたと思うのだが」
「クイーンと……オーストリア人のミューが、ドイツ語圏だが…」
オルフェの提案にファラオはこめかみを押さえる。
「ミューは日によって『あの』グロい物体になるからな…安心して護衛を任せられない」
「僕は詳しく知らないけど、クイーンは?」
「奴はアイドルやポップソングにしか興味がない」
「…こうなったらバレンタインにお願いしよう!あいつは何でもやるからね」
「確かその日は休暇のはずだ。ルネと一緒に出かけると言っていたぞ」
「万事休す」
打つ手なしと言わんばかりに両手を上げるオルフェ。
ファラオも深いため息を付くと、やり切れないように頭を振った。
「ミーノス様も何とか都合をつけて下さればよろしいのに」
「部外者の僕から見ても、ミーノスが一番曲者だからな」
ラダマンティスを苦界から救う事を諦めた音楽家二人。
当のラダマンティスはアケローン側のほとりで何やらぶつぶつ呟いていたが、状況が状況だけに二人は今はどうにもできなかった。