溺れる人魚
「取り敢えずテティス、俺を嫌っているのは重々承知だが、ジュリアン坊ちゃんを困らせるな……と俺が言っても、逆効果か」
困ったように唇を歪めたカノンは、軽く肩を竦める。
「申し訳ありません、ジュリアン坊ちゃん。今回ばかりは俺もお役に立てそうにありません」
「おや、何でもできる貴方にも、出来ないことがあるのですか」
少々ウィットの効いた口調である。それにカノンは皮肉っぽく返す。
「ええ。女の焼きもちの収め方なんて、俺は知りませんよ」
……女の焼きもち。
そう、全てはこの言葉に集約できるのだ
テティスが小宇宙を爆発させ逆上しているのは、ジュリアンが自分よりカノンを重用していることに、焼きもちを焼いているから。
ジュリアンの一番になれないことに、自分がなりたいと思うポジションにカノンがついていることに、どうしようもなくジェラシーを抱いているだけなのだ。
またカノンは口ではああいうものの、実は女性の扱いは慣れている。
決して女好きの女たらしというわけではないが、その悪い魅力で過去何人もの女性を虜にしたし、逆上した女性を『ある方法』で諌めたことも多々あった。
けれどもテティスは、これまで出会ったどの女性とも違っていた。
何が一番違うかといえば、他の女性は皆カノンの容姿なり体なり声なりに惚れ、彼に好意を抱いた。
カノンと初対面のフィーリングがよくなかった相手でも、2、3言葉を交わせば大抵はカノンに惹かれている。
彼にはそんな魅力があった。
だが、テティスは違う。
彼女にとって一番大切な男性は、ジュリアン・ソロなのだ。
カノンがいかに一般の女性からモテる存在であろうと、テティスにとってはポセイドンを騙した、ジュリアンを利用した大悪人なのだ。
故に彼女がカノンに好意を持つことは、太陽が西から昇るくらいに有り得ないことなのだ。
へたり込んでいるテティスを眺めたカノンは、ジュリアンに向かってあるジェスチャーをする。
おでこをトントンと、右手の人差し指で叩く。
「?」
何度か瞬きし、その意味を考えるジュリアン。
数秒後、カノンの意図に気付いた彼は小さくため息をつくと小声の英語で呟いた。
「カノンはやっぱり悪い人ですね」
「『これ」を察せる坊ちゃんも、十分悪い男ですよ」
聞き取ったカノンは、ひどく楽しげにそう返す。
「この部下にしてこの上司ありという感じですね」
ジュリアンはそっとテティスの前に跪くと、呆然とする彼女の瞳をのぞきながら真摯な口調で告げる。
「君が私の為に懸命になっていることは、とてもありがたく、嬉しく思っています。けれども、私も少々荒っぽい仕事をこなさなければならない場合も、やはりあるのですよ」
人魚の白い頬に、両手を当てる。主君の行動に、ほんの少しだけテティスの瞳に光が灯る。
「……ジュリアン様……」
「だからテティス、少しだけ見守ってくれませんか?私は君を泣かせる真似は、もうしませんから……」
ふっと、テティスの肌にかかるジュリアンの吐息。
「!?」
皮膚に触れる、柔らかく温かい感触。
ジュリアンが額に口付けていると気付くまで、たっぷり2秒は要した。
「じゅ、ジュリアン様!?」
顔を真っ赤にして、飛び出すようにジュリアンの手の中から逃れるテティス。
床に座ったまま後ろにずり下がるテティスを見て、器用だなとカノンは感心した。
ジュリアンは笑顔を浮かべたまま、
「そういうことですので、カノンが私に力を貸してくれることを認めてはくれませんか?」
「は、はい……」
顔を茹で蛸のように真紅に染め、少々どころでなく惚けているテティスは、そう応じるので精一杯だった。
更にジュリアンは彼女に笑顔を向け、
「ありがとうございます、テティス。では私はカノンと仕事の打ち合わせがありますので、ここの後片付けをお願いします」
「わ……かりました」
夢の中にでもいるような語調だ。
テティスはまだ寝惚けているような様子で立ち上がると、ふらつきながらも後片付けを始めた。
カノンはそんな彼女の為に異次元を利用して箒を取り出してやると、廊下へ放った。必要ならば勝手に使うだろう。
「カノン、これからの予定を教えてもらえませんか?」
ジュリアンはいつもの貴公子然とした穏やかな表情で、自分の隣に歩み寄って来たカノンに訊ねる。カノンは即座に、
「14時からは造船所の視察、19時からは大学での講演ですね」
スラスラと、まるで目の前にカンペでもあるかのように告げる。
ジュリアンは少し忙しいですねとぼやくと、では早めのランチにしましょうとカノンを伴い階下へ降りた。
食堂の隣のホールから、フルートの音色が聞こえる。
カノンはそれに気付くと、ホールのドアを開け大股で中に入った。ドアの向こうではソレントがフルートの練習をしていた。
一応カノンの後について屋敷内に入ったものの、テティスの吹き上げている小宇宙にげんなりして、現場に行かずにホールでフルートの練習を始めたのだ。
ジュリアンが気にならないわけではなかったが、カノンが出向いているのだから大丈夫だろうと踏んで、ソレントは譜面を開いたのだった。
その辺りは現代っ子らしくちゃっかりしている。
ソレントは一瞬だけばつが悪そうに顔を顰めたが、すぐにいつもの優等生の表情に戻る。
「ああ、カノン。済みましたか」
「済んだよ。ジュリアン坊ちゃんがおでこにチューで、テティスは骨抜きだ」
軽い調子で語るカノン。
ソレントは意外そうに何度か目を瞬かせると、舌先から発したような声で、
「でこチューですか」
「そうだよ。流石にこっちの方はまだ早いだろうしな」
悪そうな笑みを浮かべて、唇に人差し指を当てるカノン。
ソレントはフゥ……と深く息を吐くと、またあんたの差し金ですかとうめいた。
「ジュリアン様がそんなスケコマシのような真似をするとは思えなかったので、納得しましたよ」
「お前、今さり気なくひどいことを言っただろう」
「さて?」
曖昧に誤摩化して、ソレントはフルートをケースに仕舞い込む。
「これでテティスも落ち着いてくれればいいのですけどね。毎度毎度これでは、こちらも身が保たない」
全部をカノンに押し付けた癖に、そういうことを言う。
カノンは物言いたげな目でソレントを一瞥した後、煙草をくわえて火をつけた。灰皿は無いので小さく異次元空間を開くと、その中に灰を落とす。
間違った能力の使い方だと、ソレントは思う。
「ただ……あいつ、テティスは、いつも溺れているように思えるんだよ。ジュリアン坊ちゃんへの想いと、坊ちゃんのベストパートナーになれない自分への苛立ちで」
くわえ煙草でそう語るカノン。ソレントはやや首を傾げると、穏やかに反論する。
「テティスはジュリアン様の一番の部下、いや、一番近いところに居る海闘士だと思いますけどね」
「そう見ているのは、俺たちだけだ。あいつは違うと思っている」
もしカノンがジュリアンの側に居なければ、テティスは自分がジュリアンの一番だと信じられたかも知れないが。
ポセイドンの依代は、仕事に関してカノンに強い信頼を抱いている。
しかしそのカノン、テティスにとってはポセイドンとジュリアンを騙した、にっくき男なのだ。
「テティスは本当にカノンのこと嫌いですからね」