あいつはそれを理解できず、そいつはそれを我慢できない
貴鬼が勧められたジュースを飲むのに戸惑っていた理由は、ミロが金欠で年中白羊宮で食事をしている様を見ているからだ。
オイラがミロのコーラを飲んじゃっていいのかな?
貴鬼の戸惑いには、そんな気持ちが絡んでいた。
ちびちびとソファに座ってコーラを飲んでいると、向かいのソファにミロが座る。
ミロは右手にはコーラの瓶を、左手にはテレビのリモコン。
「あー、何か面白ぇ番組やってないか……」
小声で呟きながら、チャンネルボタンを押している。
その様は、とてもではないが最強を誇る黄金聖闘士には見えなかった。
下町に住む気のいいあんちゃんそのものだ。
貴鬼の師と同い年の同僚とは、とても思えなかった。
まぁ、他の黄金聖闘士に言わせるとムウはかなり所帯染みているらしいので、彼を基準にして考えてはいけないのかもしれないが。
『ムウ様……』
いつもは優しく穏やかな師の顔を、貴鬼は思い出す。
その師が今夜、見たことのないような表情で激怒していたのは何故なのだろうと、今更ながらに思うのだ。 [newpage]
「今日の修復課題は……ああ、今はこの聖衣しかないのですか」
夕食後、ムウは貴鬼に渡す破損した聖衣を工房で物色していた。
貴鬼に修復師としての技術を身につけさせるため、ムウは常に壊れた聖衣をストックしている。
しかし、毎日毎日それをやっていては、さすがに修復するものが無くなってしまう。
「明日ジャミールに戻って、聖衣を引き上げてきましょう」
工房を一通り見回した後、ムウは弟子にそう告げる。
聖衣の墓場には、まだまだ聖衣があるのだ。
頷きかけた貴鬼だったが、工房の端にちょこんと置いてある白銀聖衣を見て、師のエプロンを引っ張った。
「ねぇ、ムウ様。あの聖衣はどうなんですか?」
「あ、ああ……」
気乗りしない様子のムウの態度。
貴鬼は内心首を傾げたが、あの白銀聖衣はあまり破損がひどくない。
あれならば、自分でも修復できるのではないか。
そう考え、
「ムウ様、あの聖衣で作業してみていいですか?」
「あれ、ですか……」
貴鬼にあまり触らせたくないと、その優しそうな顔に大きな文字で朱書きしてあったが、子供の貴鬼はそれに気付いていない。
「ムウ様、オイラあの聖衣を直してみたいです!」
「お前にはまだ早すぎます」
やんわりと却下するムウであったが、貴鬼はそれがなんだか面白くなくて、しつこく食い下がった。
「でもムウ様!その聖衣そんなに痛んでないから、オイラにもできますよー!!」
しかしムウも譲らない。
「ダメです。これは私が作業すると、シオン様にも伝えてあります」
「ブー!!」
不服そうに唇を尖らせる貴鬼。
「そんな顔をしてもダメですよ」
その白銀聖衣に布をかぶせたムウは、弟子と共に作業場を出た。
「明日シオン様が戻られましたら、ジャミールへ行きますよ。聖衣のサルベージ作業を行いましょう」
「……はい、ムウ様」
貴鬼の顔にありありと表れている、不満。
ムウはやや怒ったような目付きで弟子を一瞥すると、
「何か言いたそうですね、貴鬼」
「……何でもありません」
「それならいいのですが」
と、白羊宮の内線が鳴った。
出てみると、処女宮のシャカからである。
「おや、シャカ。貴方がうちに電話するなど、珍しいですねぇ」
『ムウよ、少々君の力を貸して欲しいのだ』
シャカの声の向こうから、管を巻いた男性の声が微かに聞こえる。
「処女宮も随分にぎやかになりましたねぇ」
『私は迷惑しているのだがね』
シャカの話によると、魔鈴に食事の誘いを断られたアイオリアがビヤ樽持参で処女宮にやって来て、泣きながら酒を飲んでいるらしい。
『沙羅双樹の園で吐きかねない勢いなのでね、少々君の力を借りたいのだ』
「シャカ、貴方の力ならば、どんな酔っぱらいでも速やかに処女宮から追い出すことができるでしょうに」
『……そうしたいのはやまやまだが、獅子は酔っぱらったら大虎になるのだな。扱い辛くてたまらん』
あのシャカが、珍しく困っている。アイオリアに手を焼いている。
……相当アイオリアは暴れているのだろう。
なかなか面白いものを見られそうですね。
口の中でそう呟いたムウは、
「わかりました。お手伝いに伺います」
『すまない』
こうして処女宮との通話は切れた。
ムウは小さくため息をつくと、エプロンを外して台所の椅子にかけ、貴鬼に告げた。
「シャカが少々困っているようなので、お手伝いをしてきます。留守番をお願いしますね」
「はい、ムウ様!」
この時ムウは急いで白羊宮から出て行ってしまったので、弟子がどんな表情で自分を送り出していったか、全く気付いていなかった。
「……ムウ様が居ない隙にあの聖衣をピカピカにして、ムウ様をビックリさせてやろう!」
貴鬼の顔にはゴシック体でそう書かれていたのだが、さっさと処女宮に向かってしまったムウは、知る由もなかった。
ムウが再び白羊宮に戻ってきたのはそれから二時間半後のことである。
獅子から大虎になったアイオリアは、黄金聖闘士の中でも実力者と目されるこの二人でもなかなか押さえ込むことができなかった。
「アイオリア……そんなになって。いい加減獅子宮へ戻ったら如何ですか?」
「ヒック……俺は……エグエグ……俺だってなぁぁぁ!!」
「シャカ、いっそアイオリアの五感を剥奪してもらえませんか?」
「この程度のことで、何故この私が奥義を使わねばならん」
「貴方の宮のお客の問題でしょうに」
「君こそ、クリスタルネットでアイオリアを大人しくさせられないかね?」
「酔っぱらいに使うような技ではありませんし」
と、お互い、押し付け合い、なすり付け合い、泣きつかれて眠ってしまったアイオリアをムウが獅子宮に届けて、
ようやくその件は解決したのだが。
帰宅したムウには、また別の問題が突きつけられることになった。
「……なんですか、これは」
触らなくていいと厳命した白銀聖衣を勝手にいじり、見かけ以上に痛みが激しかったので自分の技術ではどうにもできず、作業場で一人途方に暮れている貴鬼の姿を確認したムウは、非常に無機質な口調でそう訊ねた。
ハンマーと鑿をつかんでいた貴鬼は、半分べそをかきながら、
「できると思ってやってみたら……この聖衣、表面は綺麗なのに、中はスカスカなんですもん……」
そうなのだ。
この聖衣は少々珍しい症例で、パッと見は大きな傷や破損がないため、自然に回復するだろうと“素人”が見たら思ってしまう。
しかしこの聖衣、先の聖戦でハーデス配下の神を封じ込める際に使用した聖衣なので、その暗黒の小宇宙で内部が激しく腐食されている。
見た目はひどくないが、少し乱暴に扱ったらポキッと折れてしまいそうなほど、傷んでいた。
とてもではないが、貴鬼レベルの『ひよこ』が修復できるような代物ではない。
ムウは無言で聖衣の元へ寄ると、明らかに怒りを押し殺した声で、
「お前にはまだ早過ぎると言いましたよね?」
「……はい」
「お前の課題は、明日聖衣の墓場からサルベージすると言いましたよね」
「……はい」
蚊の鳴くような声である。
しかし師の言いつけを破ったのは自分なので、何も反論できない。
ムウは工房の自分の道具箱をテレキネシスで引き寄せると、修復の準備を始めた。
「……ムウ様?」
作品名:あいつはそれを理解できず、そいつはそれを我慢できない 作家名:あまみ