あいつはそれを理解できず、そいつはそれを我慢できない
怖ず怖ずと貴鬼が師の名を呼ぶと、ムウは底冷えするような冷たい口調で弟子に告げる。
「明日の朝、シオン様が帰られるまでに何とか形にしなければなりません」
「じゃぁ、オイラもお手伝いを……」
「無用です」
鉈で叩き潰すような物言いだった。
「今夜は私一人で作業します。お前は勝手になさい」
ムウの表情は、貴鬼に背中を向けているため、伺い知ることはできない。
けれども、いつものもの柔らかい物腰や言葉遣いが嘘に思えるほど、今のムウを取り巻く空気は冷たく尖っていた。
……こんなに怒ったムウ、貴鬼はこれまで見たことがなかった。
こうなった以上、今夜は白羊宮に居ることはできない。
「ムウ様、勝手してごめんなさい」
凍えそうな声で師に詫びた貴鬼は、重い足取りで外へ出て行った。
ムウは何も言わずに、弟子の外出すら気にかける様子すらなく、作業を進めていた。
そして話は冒頭に戻る。
ミロは半泣き顔の貴鬼の話を聞いた後、困ったかのように頭をぼりぼりと掻く。
貴鬼にどう話を切り出したらよいのか、考えている様子だった。
「……ミロ?」
ミロがこのように悩む姿を、貴鬼はほとんど見たことがない。
彼はよくも悪くも、直情型の気持ちのはっきりした男である。
そのミロがこんな風に悩んでいる様を人に見せるのは、とても珍しかったのだ。
「……なぁ、貴鬼」
ミロの呼びかけは、デリケートなものを扱うような、そんな気遣いを感じさせた。
「お前、何の聖衣をいじった?」
ミロからそんな質問を受けるとは考えていなかった貴鬼は、一瞬きょとんと目を丸くしていたが、すぐに、
「祭壇星座かな?」
「それ、誰の聖衣か、知ってるか?」
首を大きく横に振る貴鬼。
ミロはアチャーと言わんばかりの表情で、視線を泳がせる。
「まー、そりゃ、ムウがブチキレても仕方ないな」
「え?なんでなんで?」
ソファから立ち上がり、ミロのジーンズをつかむ貴鬼。
その瞳には、どこか縋るような色が浮かんでいる。
「まぁ、落ち着け」
宥め諭すような口調で貴鬼の頭をポンポン叩いたミロは、ゆっくりと語り出す。
「この前さ、白羊宮行った時にその聖衣だけぽつんと置いてあったからな。俺も不思議に思って、ムウに訊いてみたんだよ」
「うん」
「するとあいつな、『この聖衣は見た目ではわかりませんが、とても傷みが激しいのと、それと……とても大切な聖衣ですので、まとまった時間が取れた時に丁寧に修復したい』って言ってたんだよ」
「……大切な聖衣?」
それは貴鬼も初耳だったようである。
ムウは一言も、あの聖衣が大事なものだとは言わなかった。
「ああ。俺もそれを聞き、不思議に思った。今のお前と同じようにな。ムウは白銀聖衣とはあまり縁がないからな」
「……うん」
それは、物心ついた時からムウと一緒にいる貴鬼も知っている。
現にあの聖衣だって、ボーナスの計算のためにジャミールに戻ったシオンが持ち帰ったものだから。
なのに、何故大切な聖衣と……。
貴鬼の戸惑いを表情から読み取ったミロは、一言。
「あの聖衣な、教皇の師匠の聖衣なんだとさ」
「え!?」
貴鬼の体が、弾かれたように揺れる。
ということは……。
「シオン様の師匠の聖衣?」
「ああ」
ミロは、ムウがそれを教えてくれた日を思い出す。
『この聖衣はですね……』
工房の端に置かれていた、見た目は綺麗な白銀聖衣に手を伸ばし、慈しむように撫でるムウ。
『シオン様の師の聖衣なんですよ』
『教皇の師は白銀聖闘士だったのか!?』
ミロは、いや、ムウと老師以外の黄金聖闘士は、シオンのことをほとんど知らない。
厳格だが身内には甘い、長生きし過ぎの中身老人くらいの認識である。
だからミロは、ムウの口から明かされた事実に、少々驚いていた。
ムウは哀しそうに聖衣を眺めながら、
『実力としては黄金聖闘士以上だったそうです。シオン様の師と互角の実力を誇る弟君が、先代の教皇だったそうですから』
『そうなのか』
『ですが、前代の教皇が死の神を封じ込める際に、この聖衣をシオン様の師匠からお借りしたようで。そのおかげで、この聖衣は内部が腐食しているのですよ。その死の小宇宙で』
『……先の聖戦の激しさを物語る聖衣というわけか』
『ええ。ですので……私が時間をかけて、丁寧に修復したいのです。これは、修復師としての私の意地のようなものですね。そして……』
そう語る、ムウの顔。
それは、ミロは知るどのムウの表情とも違っていた。
『少しでも、シオン様に喜んで頂きたいのです』
まるで父親の誕生日に手作りのセーターをプレゼントしようと企んでいる、思春期の子供のようだった。
ああ、こいつもこんな表情できるんだ。
聖衣をそっと撫で続けるムウの姿を見ながら、ミロはそんなことを考えた。
いつもは余裕綽々の笑みで白羊宮の家事や教皇と弟子の世話をしている、ひどく所帯染みた同僚なのに。
今は、実年齢よりも幼く見える。
ミロはムウがあの聖衣に抱いている深い想いを、知った。
「師匠の師匠の聖衣だもんな。そりゃ、思い入れもでかくなるな」
「…………」
無言になる貴鬼。
自分がいじっていたのは、いつも優しいおじいちゃんの、大事な師匠の聖衣。
ムウがシオンを喜ばせたいと、丁寧に修復しようと思っていた聖衣。
それを知った途端、貴鬼の心に押し寄せるのは、後悔の大津波。
「……お、おいら……」
天蠍宮中に響くような大声で、泣かれる。
幸いにもDVD鑑賞が趣味のミロの居住スペースは防音が利いているので、貴鬼の鳴き声が外に漏れることはなかったが。
「おい、ガキだろうが黄金聖闘士の弟子なら、あんまりみっともなくガン泣きしてんじゃねぇよ」
「で、でも……オイラムウ様にもシオン様にも悪いことしちゃって……ムウ様の言いつけ破っちゃったし、シオン様のお師匠様の聖衣も変な風にいじっちゃったし……」
泣きながら、しゃくり上げながら、荒い呼吸の中で途切れ途切れにそう話す貴鬼。
顔面は涙と鼻水でグチャグチャであるため、ミロは仕方ないのでボックスティッシュを放り投げてやった。
貴鬼が鼻をかんだのを確認したミロは。
「貴鬼」
小声で名を呼ぶ。
反射的に顔を上げ、ミロを見上げる貴鬼。
ミロは右手の人差し指を貴鬼の眉間に当てた。
「…………っ!」
すっと意識を失った貴鬼は、糸が切れた操り人形のようにカーペットの上に崩れ落ちる。
「……ガキの世話なんて柄じゃないんだけどな、俺は」
ソファベッドを操作してベッドにすると、そっと貴鬼を横たえてブランケットをかけてやる。
今貴鬼にかけたのは、リストリクションの応用系だ。朝まで起きる事はないだろう。
「まぁ、いつも飯食わせてもらっているからな。たまには一肌脱いでやるか」
瞼の裏に、貴鬼の泣き顔が浮かぶ。
小声で呟いたミロは、部屋の灯りを消すと天蠍宮を後にした。 [newpage]
中からはオリハルコンとガマニオンを混ぜ合わせる、なんとも形容しがたい妙な音が聞こえる。
「……こんな夜中に、随分と頑張っているな」
工房に面したテラスからミロが声をかけると、殺気走った目でオリハルコンを練り上げていたムウは、目線だけミロに向けた。
「こんな時間にどうしたのですか、ミロ。今頃来ても夜食はありませんよ」
作品名:あいつはそれを理解できず、そいつはそれを我慢できない 作家名:あまみ