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あいつはそれを理解できず、そいつはそれを我慢できない

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顔を伏せていた上にすぐに後ろを向いてしまったので、ミロに確認する術はない。
声の調子は平常のものにほぼ戻っていたが、顔つきはどんなものであろうか。
「……血液の提供、ありがとうございました。黄金聖闘士の血で修復するなんて、久しぶりですねぇ」
ノミとハンマーを持って、聖衣に手を入れ始めている。
ミロはその背中を見つけながら、ムウに再度要望する。
「なぁ、貴鬼を怒らないでやってくれよ」
ムウは返事をしない。
端から見ると、ミロの言葉を完全に無視したようである。
ミロはそれにチッと舌打ちしそうになったが。
「……ミロ」
「なんだよ」
「冷蔵庫の中に、残り物のカツサンドと野菜サンドが入っています。それを召し上がってから、お帰り下さい。
天蠍宮へ戻る途中で貧血でも起こされましたら、私のせいにされてしまいますからね」
夜のしじまに響く、オリハルコンを削る音、ハンマーでノミを打つ音、そしてムウのいつも通りの台詞。
質問の答をはぐらかされたと感じないでもなかったが、ミロはムウの『好意』を素直に受け取る事にした。
「ああ、食ってから帰るよ。お前も修復頑張れよ」
「そちらこそ。その体で頑張って天蠍宮までお帰り下さい」
お互い、顔は見ないし、見せない。
だがミロは、それでいいような気もしていた。
……多分ムウは、今回の件で貴鬼を怒らないだろう。
何となく、何となくだが、そんな予感はあった。

明朝。午前六時半。
スターヒルでの星の観測を終え、教皇の間で書面を整えたシオンは、白羊宮へ帰宅途中であった。
欠伸を噛み殺し十二宮を下っていると、天蠍宮で何者かに呼び止められた。
「お待ち下さい、教皇」
「ん?」
シオンが小宇宙を感じ顔を上げると、聖衣にマントの正装姿のミロが、目の前に跪いていた。
ミロがこの時間に起床している事に、少々驚いた様子のシオン。
まさか、朝に『若干』弱いミロが、こんな時間にきっちり聖衣を纏って自分の前でこうべを垂れているだなんて、全く予想していなかった。
「ほぉ、ミロ。斯様な早朝から感心だな」
シオンの言葉には、多少の皮肉も含まれていた。
なにせミロは、シオンが出勤する際に天蠍宮を通過すると、五割の確率で眠っているのだから。
蠍座の聖闘士は頭を下げたまま、
「我が宮で貴鬼を預かっております。昨晩事情があり、天蠍宮に宿泊させました」
「事情、か」
シオンの呟きには、何の感情も込められていない。
事実を事実として受け止めている口調である。
「左様か。今の時間では、貴鬼はまだ眠っておろう」
「ええ」
「では私が連れ帰る。少々上がらせてもらうぞ」
天蠍宮の居住スペースに足を向けるシオン。
ミロは『御意』と小さく頷いた後、立ち上がりシオンの後に続いた。

ソファベッドに横たわる貴鬼の頬には涙の跡が濃く残っており、シオンは一瞬ミロに拳を向けそうになった、が。
もしミロが貴鬼を泣かせたのであれば、彼は自分に仕置を受ける事を恐れ、貴鬼を預かっている事を黙っていただろう。
何もわざわざ、貴鬼を預かっていますと自爆をする必要はない。
……ならば何故、この可愛い孫弟子がこんなところで泣きながら眠っているのか。
すると、その腹の中を読んだように、ミロが話を切り出す。
「教皇、お耳に入れたきことが」
「?」
シオンが振り向くと、これまでにないほど真剣な顔をしたミロが、じっとこちらを見つめている。
「どうした、申してみよ」
「それでは。全て事実でございます」
そう前置きしたミロは、ゆっくりと昨晩の出来事を語り始める。
全て聞き終えたシオンは、どうしたものかと言わんばかりの表情で、右手で顎を撫でていた。
呆れてよいのか、怒ってよいのか、喜んでいいのか。
どういう顔をしていいのか、シオンはわからない。
「教皇、俺から一つお願いがございます」
「何だ、申せ」
「ムウの事も、貴鬼の事も、叱らないで頂けますか?」
「なんと」
ミロの申し出に、相当驚いたのであろう。
二世紀半生きた教皇が、目を見開いている。
そんなシオンの顔など滅多に見られないので、ミロは内心ニンマリしていたが、本心は全く表情に出さずにただ教皇の返事を待った。
長い沈黙の後シオンは、
「ミロよ」
「何でございましょう」
「左腕の聖衣を外せ」
今度はミロが目を丸くする番である。
シオンの命をなかなか実行できないでいると、外見のみ若い教皇は急かすかのように、
「疾くせぬか」
「御意」
渋々左腕のパーツを外すミロ。
その手首には、先程自分でつけた生々しい傷跡が、しっかりと残っていた。
「……血を、差し出したのだな」
そう問いかけるシオンの口調は、どこか哀しそうだった。
「教皇、何故この傷が……」
ミロはそれを知りたかった。
何故教皇は、聖衣の下に隠されたこの傷跡を見抜くことができたのか。
だがシオンは曖昧に笑っただけで、答える事はしなかった。
実はシオンには聖衣と会話できる能力があり、この時も蠍座の聖衣がシオンに、ミロが祭壇星座の聖衣のために血を差し出したと語りかけたのである。
それ故シオンは、ミロの傷口を見抜くことができたのだが。
『私が聖衣の声を聴ける事は、伏せておいた方がよいな。他人に知られると、色々厄介だ』
シオンのこの力は、ムウと童虎くらいしか知らないし、彼らも他人に知らせるつもりはなかった。
「血を、差し出したな?」
「……仰せの通り」
しおらしい顔でミロが肯定すると、シオンは貴鬼を抱き上げ、告げた。
「その傷に免じ、二人は不問としようぞ。それでよかろう、ミロよ」
唇に笑みが浮かんでいる。
その瞳は、たまらなく優しかった。
教皇の言葉に、ミロは深々と頭を下げる。
横暴で頑固者で家族にはめっぽう甘い教皇だが、人の情を理解できる男なのだ。
去っていく教皇の足音を聴きながら、
「ああ、今日は昼過ぎまで眠れるな」
と、ミロはかなりユルユルなことを考えていた。
どうせシオンは、今日はもう教皇の間に出向く事はない。 [newpage]
「……ふむ」
白羊宮に帰宅したシオンが見たものは、居間のソファで横たわり、ブランケットもかけずに眠りこけるムウの姿だった。
ミロの話によると、一晩中祭壇星座の聖衣を修復していたようなのだが。
さて、聖衣はどんなものなのだろう。
寝室のベッドに貴鬼を降ろすと、工房に入る。
するとそこには、修復を終えて元の輝きを取り戻した、最愛の師の聖衣があった。
「……おお……」
期せずして、シオンの口から漏れる感嘆の声。
パーツを一つ手に取ると、じっと見つめる。
『元の姿に、ようやく戻れたわい』
師の声が、いつも闊達だった師の声が、聞こえてくるようであった。
あの聖衣を一晩でこの状態に修復するのは、どれだけ大変な事か。
シオンも修復師だ。よくわかっている。
「ミロの血と、ムウの努力のおかげか」
小声で独語すると、聖衣を元に戻す。
そして法衣の裾を捌いて居間に戻ると、規則正しい寝息を立てているムウの耳元に唇を寄せて、一言。
「大儀であったな、ムウ」
「……シオン……様……」
寝言で師の名を呼ぶ様に、ついつい笑みがこぼれる。
「斯様な場所で眠るでない。風邪を引く」
法衣を脱ぎ、ブランケット代わりにかけてやる。
「まったく、上掛けくらいかけぬか」