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寺子屋の手記

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しかしカミュは静かに首を横に振ると、
「まぁいい。それより、お前は本当に読み書きを学ぶ気があるのか?」
突然の問いかけ。カミュの紅茶色の視線が、氷戦士の顔を撫でる。氷戦士は真剣な表情で頷くと、
「Да(ああ)」
するとカミュは、端正な容貌を優しく緩めた後、ポンと彼の肩を叩いた。
「寺子屋は朝9時からだ。水曜、土曜、日曜以外は開講している」
その意味を氷戦士は一瞬理解できなかったが、徐々に言葉が脳に染み込んでいくと最大級の喜びが彼を包み込む。
感激のあまりカミュにしがみつこうとしたが、男に抱きつかれる趣味のない水瓶座の聖闘士はひらりとかわすと、遅刻するなよと一言言い残し、隣の控え室に足を向けた。

控え室ではアレクサーがあの格好のまま、サモワールで紅茶を淹れている最中だった。
その姿のアンバランスさにカミュは不思議な非現実感を覚える。
村の集会所で武装した青年がサモワールで紅茶を淹れている。
何とも奇妙な光景である。
「もう一人の氷戦士はどこに行った?」
カミュが入り口から問いかけると、アレクサーは立ったまま紅茶のカップに口を付けつつ、
「ドミートリィが講義を受けている最中にブルーグラードに戻った」
「お前は帰らなかったのか?」
「ミーチャを一人で帰らせるわけにはいかないだろう」
真剣に答えるアレクサー。ミーチャはドミートリィの愛称だ。
一件冷たい印象のあるアレクサーだが、ミーチャに文字の読み方を教えていたところといい、見かけによらず仲間思いなのかも知れない。
「そうか」
短く頷いたカミュは、その日の授業が終わったので手早く帰り支度を始める。
氷河たちの訓練の様子を確認した後、聖域からのメールのチェックしたり、夕食の支度やらをしなければならないのだ。
(最近は氷河も作るようになったが)
「アレクサー、今日はもう授業は終わりだ。私はもう帰る」
「……随分と忙しいな」
皮肉っぽくアレクサーが言うが、カミュは素直に首を縦に振る。
「やるべき仕事が山のようにあるのでな」
特に感情を込めない答え。事実なので、反論すべき事はない。
「集会所は5時に村長が施錠に来る。紅茶を飲んだり、本を読むくらいなら、ここに居ても構わん」
カミュは事務連絡の如くアレクサーに告げると、コートをつかんで外に出た。
あっという間に気配が消えたところを見ると、テレポートを使って帰宅したのかも知れない。
黄金聖闘士クラスなら、距離の長短はあるものの皆テレポートは使える。
アレクサーはしばらくここで紅茶を飲んでいたが、廊下から氷戦士が自分を捜している声が聞こえたので、カップを流しに置くとあの格好のまま外に出た。

翌日は水曜日で、カミュの寺子屋の休講日であった。
そのためカミュは朝から自分の部屋にこもり、聖域から送られてきた書類の処理に勤しんでいた。
黄金聖闘士12人のうち、事務処理能力が優れているのは、サガ、カミュ、アフロディーテの3人。
そのため彼らの元には多量の書類が舞い込んでくる事になる。
普段シベリアに住んでいるカミュも、最近は電子メールという便利なものが出来たせいか、書類仕事から逃げられなくなっていた。
こういう時は、文明の発達が少々疎ましい。
氷河は屋外で薪割りをしながら、頭脳も秀でた師の苦労を思った。
「カミュは大変だな」
師に同情しつつ、手刀で薪を割っていると。
三頭立ての馬車、所謂トロイカが家の前に止まった。御者は昨日の氷戦士・ドミートリィである。
「……カミュはご在宅か?」
ドミートリィは丁重な口調で氷河に訊ねた。氷河はこの男を知っている。
氷戦士の一員で、アレクサーと共にいた男だ。
ただ、カミュから昨日の話を聞いていたので、氷河の態度は敵に対するものではなかった。
「今は自分の部屋で事務仕事をしている。少したまっているようで、今は手が離せないようだ」
氷河はカミュから、今日は忙しいから来客は取り次がないでくれと頼まれていた。
するとドミートリィは少し残念な顔をした後、馬車の客席の扉を開いた。
氷戦士に手を引かれ馬車から降りてきた人物の顔を見て、氷河は目を見開く。
白い女物のコートの裾がふわっと舞う。
「お久しぶりです、氷河」
丁寧に挨拶したその人物とは。
「ナターシャ!一体何故ここに!」
やってきた人物は、ブルーグラードの領主の娘、そしてアレクサーの妹であるナターシャであった。
氷戦士との一件で、彼女は氷河とも面識があるのだ。
ナターシャは凛とした顔つきで氷河に向くと、はっきりとした口調でこう告げた。
「カミュとお話に参りました」
「カミュと、か」
ちらりと、家屋の方を見やる氷河。
今頃カミュは、自分の部屋でウンウン唸りながらパソコンと向き合っている。サガが面倒な書類を丸投げしてくるそうなのだ。
なので、氷河としてはできればカミュには会わせたくないのだが、こう真剣な表情で自分を見つけているナターシャを見ると、無碍に帰れとも言えなくて。
「では、昼食時ならカミュも部屋の外に出る。その時話してくれ。今は会わせられない」
「わかりました。では、中で待たせて頂きます」
静かに、しかし強い口調で告げたナターシャ。氷河は他人にはわからない程度に息を吐くと、彼女と氷戦士を中に案内した。
居間に通し、熱い紅茶を砂糖の固まりとともにサーブする。
ジャムやマーマレードを紅茶の中に入れると思われがちのロシアンティーだが、現地ではあまりそういう飲み方をしないようである。
現在は午前11時。カミュがこちらに来るまで、後1時間はある。
すると氷戦士がナターシャに怖ず怖ずとこう頼んだ。
「ナターシャ様、何か言葉を教えてもらえませんか?」
「言葉」
ナターシャもこの男が昨日カミュの寺子屋でどんな事を学んできたのか、兄から聞いて知っていた。
「いいわ、ミーチャ。氷河、申し訳ないですが……紙を一枚頂けるかしら?」
「あ、ああ」
とはいっても、紙を一枚だけというのは案外見つからないものだ。
サイドボードの引き出しの中に、半分程使用したレポート用紙があったので、それを丸ごとナターシャに渡した。
「これでいいか?」
「ハラショー!」
ナターシャと氷戦士から上がる声。

あんな使いかけでハラショー言われては、氷河の方が気まずくなってしまう。
『使いかけではなく、新品を探してやればよかったな……』
カミュは事務仕事をよく任されているので、備品の支給も多かった。
家の中を探せば、新品のレポートパッドくらいどこかにあるはずだ。
そんな氷河の視線の先では、15程の単語を紙に書いたナターシャが、ドミートリィの前で読み上げていた。
「鳥」
「鳥!」
「食事」
「食事!!」
『まるで子供のようだとカミュが話していたが、今の様子を見ればそれも納得できるな……』
目を輝かせ、ナターシャと共に単語を読み上げている氷戦士の姿を見て、氷河は師の言葉が正しかった事を知った。
なるほど、カミュが気に掛けるのもよくわかる。
と、時計に目をやると、そろそろ昼食の準備をする時間である。
「さて、と」
居間のソファから立ち上がった氷河は、ブルーグラードからの客人を微笑ましく見つめながらキッチンに入った。
氷河がカミュから授けられたのは、聖闘士の技だけではないのだ。
作品名:寺子屋の手記 作家名:あまみ