寺子屋の手記
「珍しい客人が来ているな」
昼食のために部屋から出てきたカミュは、居間で単語の読み上げを行っているナターシャと氷戦士をの姿を目にし、微かに口元を緩めた。
氷戦士が懸命に学んでいる姿が微笑ましたかったのだ。
ナターシャはカミュの姿に気付くと、読み上げを止め、そちらに向いた。そしてすがるような口調でこう懇願する。
「水瓶座のカミュ、お願いがございます。私はブルーグラードの領主の娘であり、氷戦士アレクサーの妹ナターシャ。我がブルーグラードでも寺子屋を開講しては頂けないでしょうか?」
その表情は真剣そのもので、彼女がどんな感情とどんな想いでここまで出向いてきたか、カミュにも痛い程伝わった。
けれども、カミュの返答はクールそのものだった。
「ニェット」
そこの答えにナターシャの顔から血の気がさぁ……と引いていくのがわかる。
けれどもカミュは、全く感情を感じさせない物言いで告げた。
「正直、私はもう手が回らないのだ。私は聖闘士故、どうしてもその仕事も多く入ってくる。だが、コホーテク村には世話になっているからな。そんな中、何とか時間を作って子供たちを指導している」
物理的に時間が足りないのだと、カミュは諭す。
「それに……そこのドミートリィにはコホーテク村の寺子屋で受講するように昨日話した。何も問題はないはずだが……」
カミュの言葉に、ナターシャは激しく首を振る。
「カミュ、我がブルーブラードにはドミートリィの他にも、字の読めない者が沢山居ります。また子供たちも、戦士としての修業に明け暮れ、読み書きの修得が疎かになっている状況です」
ナターシャの瞳は潤んでいた。
彼女なりに、ブルーグラードの現状について憂いているらしい。
「ブルーグラードには読み書きのできる人間がいないのか?いるならば、その者たちに任せるがよかろう」
カミュの問いに、今度はドミートリィが答えた。
「文字の読み書きや学問ができる者は、ほとんどがモスクワに出て情報収集などの仕事をしたり、大学に通ったりしているのです。結果、この地には俺のような者が多く残ってしまい……」
これには、カミュも返す言葉が出なかった。
ナターシャは両手を胸の前で組むと、神にでも祈るかのようにカミュに頭を下げた。
「水瓶座のカミュ!我がブルーブラードの子供たちにも、学ぶ機会を与えて下さい!お願いします……」
「しかしな……」
カミュの目線が泳ぐ。
彼は本当に多忙なのだ。もしここでナターシャの願いを受け入れてしまったら、聖域の仕事が疎かになり、教皇から刺客を送られてしまう。
彼女の気持ちも願いも痛い程理解できるが、物理的に時間も人手も不足しているのである。
「どうしました?カミュ」
カミュが無表情で固まっていると、氷河が台所からパンケーキの乗った皿をつかんで現れた。『ブリン』と呼ばれるロシア伝統のパンケーキだ。
その氷河の顔を見た途端、カミュの中で何かが閃いた。
水瓶座の聖闘士は後生ですからと祈るナターシャに向かって、こう告げた。
「私が読み書きの指導に当たる事は、物理的に不可能だ。しかし……」
カミュの紅茶色の視線が、氷河に向けられる。彼の瞳は光の具合ではルビーのように赤く見えた。
氷河は師のその視線の意味が分からなくて、皿をつかんだままきょとんとした顔で立っている。
「……カミュ?」
「ナターシャ、氷河をブルーグラードに派遣するので、彼から読み書きを習うがいい」
「えええ!!?」
同時に叫ぶナターシャと氷河。
ナターシャは喜びの、氷河は驚きのそれであったが。
「カミュよ、この氷河は人にものを教えられる程、立派な人間ではありません」
慌てふためいた様子で氷河は師に訴えるが、カミュは涼しい顔でこう言った。
「私が物理的に手が空かんのだ。私の名代としてお前がブルーグラードに赴き、読み書きを教えてやれ。お前なら出来る。私の弟子だからな」
「し、しかしカミュ……」
反論を試みる弟子に、カミュは修業時代のような厳しい眼差しを向けると、
「氷河よ、お前はこのカミュの跡を継ぐ男。私の業務の一端を担えないでは、私の弟子とは言えんぞ!」
「我が師カミュ!氷河はフランス語も英語も出来ませんので、貴方と同じ仕事を聖域から与えられたら、泣きます!」
「執務室もお前に書類を任せる程切羽詰まってなかろう。とにかく、ロシア語の簡単な読み書きの指導ならば、お前にも出来るはずだ」
この二人のやり取りはギリシャ語で行われたため、ブルーグラード出身の二人にはわからなかった。
その後も師と弟子の言い合いが続いたが、結局氷河は根負けしてカミュの要望を飲むことになってしまった。
「スパシーバ!カミュ、氷河!」
感激のあまり、氷河に抱きつくナターシャ。
カミュが窘めるように咳払いをするまで、氷河はナターシャに拘束されていた。
「あ、その、ナターシャ」
顔を真っ赤に染めた氷河はしどろもどろな様子で何か話そうとするが、噛んでしまって言葉にならない。
あまり女性に免疫がないのだ。
氷戦士がニヤニヤして自分を見つめているのに気付いたが、言い返す程余裕がない。
「氷河よ、いつでもクールでいろと教えたはずだが」
師はそう言って咎めるが、氷河はまだ冷静さを取り戻していない様子で言い返した。
「カミュも今の俺と同じ目に遭ってみるといいんです」
「………………」
途端に黙り込むところを見ると、カミュも女性に免疫がないようである。
こうしてカミュはこれまで通りコホーテク村の集会所で勉強を、そして氷河はブルーグラードで簡単な読み書きを教えるようになった。
ブルーグラードに出向く前日、氷河はカミュに指導方法についてのアドバイスを貰う。
「はっきり丁寧に発音しろ」
「大きな声で、気持ちで負けるな」
「皆学ぶことが大好きなのだ」
それらの言葉を聞く度氷河は、自分の師はつくづく人に物を教えるのに向いた人材だと思う。
聖闘士になっていなかったら、パリの大学を卒業して数学か物理の教師にでもなっていたのではなかろうか。
「我が師カミュよ」
「何だ、氷河」
「カミュも大学に行って、教師の資格を取得したらどうでしょう」
思いつきで言ってみた言葉だが、カミュは一笑に付した。
「今更大学に行ってどうする」
「丁度大学生の年齢でしょう、カミュは。今からでも学び直せますよ」
「私には学校に行ってまで学ぶことなどないさ。自分で何でも学べる。それに……」
「それに?」
「私が大学に行きたいと言い出したら、サガとアイオロスが世界中の大学を破壊する」
声を低めるカミュ。カミュは聖域の事務処理班なのだ。教皇補佐官のあの二人は、絶対に許さない。
師の言葉に、氷河は苦笑いをする。あの二人ならば、やりかねない。
と、カミュは手に持っていたボールペンを器用にくるっと回すと、
「私はお前という弟子を立派に育てた。教師の資格など不要だ」
端正な口元に浮かぶ、薄い笑み。カミュの指導者としての完成品は、今目の前に居る氷河だ。
それ以上、何を望むというのだ。
師の言葉で顔を真っ赤にした氷河は、早足で自分の部屋に向かう。
カミュから面と向かってそんな事を言われたことがなかったので、なんだかとても恥ずかしかったのだ。
そんな弟子の背中を温かく見送ると、カミュはパソコンを立ち上げた。